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2009年1月

2009年1月31日 (土)

酒の嗜み

 朝日新聞31日(土)付けの「Be」に、「お酒を飲みますか」というアンケートの結果が載っている。11257人のインターネットモニターから集めた回答である。私もモニターに登録をしているのでその中に入っているはずだ。

 73%の人が酒を飲むと答えた。理由の第一は、「味が好き」で30%。私もその一人である。次が「食事が進む」で29%。私も同じである。

 酒の上の失敗の経験では、

第一位 嘔吐          60%

第二位 電車を乗り過ごす  40%

第三位 記憶をなくす     35%

第四位 物をなくす       18%

第五位 終電車乗り遅れ   15%  

などで、酔いつぶれるは13%である。

 ところで、私にはそうした経験が一つもない。一度だけ結婚後まもなくであったが、忘年会で殆ど何も食べずにしたたか飲んだとき、べろべろになって帰宅したことがあり、そのときは「もう酒はやめた」と思ったのだが、翌朝には、けろっとしていたのを思い出す。

 このように書くと、私が物凄い酒豪のように思われそうだが、酒豪ではない。ただ、晩酌は嗜む。英語では、毎日飲む人のことをアルコホリックというそうだが、日本語の晩酌には馴染まない。

 また、アルコール依存症はまた別のものである。

 私は、晩酌では、冬季は酒で2合、夏季は年金生活なので第三のビールで2缶と決めている。ただ、外で誰かと飲むときは量が進む。

 私の好きな言葉は、孔子の「酒は量なし、乱に及ばず」である。似たような表現に、誰が言ったのかは忘れたが「酒は飲むべし、飲まるべからず」というのもある。

 また、若山牧水の「白珠の歯に染みとおる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけれ」という歌も好きである。

 晩酌は手酌だが、友人と飲むときは、談論風発、愉快に飲む。これが酒の醍醐味である。

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2009年1月30日 (金)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 8-最終回

51)朝食の時

3時ごろ起床して、最後のパッキングなどをした。朝食は、早めに行ったが、レストランはもう開いていた。JTBのグループは終わるところだった。グループによって指定席だった。食べていると、MATさんがやってきた。やはり早い。OTKさんやMIUさんたちも来た。NUさんは私たちのテーブルにつき、一緒に食べた。私は、持っていた紀州南高梅の蜂蜜漬けをみんなにあげたら喜ばれた。

バイキングは同じだが、シェラトンはウエイターがコーヒーのサービスをしてくれた。食べながら「MATさんはあちらこちらに海外旅行をしているから余裕があるのだね。」という話から、何時しか株などの話になった。今年は株価が下がっているので大きな含み損が出ているとか、これまでに儲けた話や損をした話が出た。為替の話も出て、今円が高いから105円ぐらいになったら買いたいなどという話も出た。MATさんは、次は、スペイン行きが決まっており、NUさんはアイルランドに行く予定だと言っていた。

りんごを一つ持ち帰ってバッグに入れておいた。

52)王家の谷

645にバスはホテルを出発した。最終日は、ナイル川西岸の“死者の谷”といわれる「王家の谷」と「ハトシェプト女王葬祭殿」に行くのだ。

途中、アメンヘテプ三世の坐像である巨大なMemnon像で停車した。

 

  730“王家の谷”に到着。ここには王墓が63あるという。電気で動く2両連結のトロリーに乗るのだ。サウサンが「どんどん前に行かないと他の人が来てしまうよ。」と言った。後からきたフランス人のグループが前に出た。トロリーは、5分ぐらい乗ってすぐに着いた。入場券では、3基の王墓に入れるのだ。ツタンカーメンの墓は80ポンド別に必要なので希望者だけだが全員入る。

 

  王家の谷は、死者の谷にふさわしい肌色の禿山の谷にあった。正面に三角にとがった頂があり、その形がピラミッドに似ているのでこの地を選んだのだという説明であった。墓はみな地下に造られている。

まず、混んでこないうちにとツタンカーメンの墓に入った。入り口に、TOMB OF TUT ANKH AMUNと書いたサインが出ていてNO.62の王墓だった。ツタンカーメンは、8歳で即位し、僅か18歳で亡くなったのに有名なのは、まさかと思う深いところにあったので王墓が盗難にあわないで完全なままで発見されたからだ。発見はカメラマンによる偶然であった。サウサンは、「吉村先生は一生懸命頑張っているのに運がない。」と言った。

中に入ると、ガラスの箱の中にツタンカーメンのミイラが安置されていた。黒い頭部と足以外は白い布で覆われていた。身長はミイラのせいか120cmぐらいだ。傍に監視の人がいた。ミイラの発見は、来る前の新聞やTVで報道されたばかりで、公開されたのは10日前だと言う。我々は大変ラッキーだったのだ。NUさんが、「ミイラ館を見なくてよかったね。」と言った。KATさんは、これだけ見ただけで来た価値がある。」と言った。

近くに、石棺があり、一番下の金の装飾をしたマスクが入っていた。それ以外は全てCairoの考古学博物館に置かれている。

次に、ラメセス九世の墓に入った。入り口に、RAMESES IX 書いてあり、NO.6の墓だ。入り口を入ると、絵や文字を描いた壁が続く。どんどん下って、突き当りの部屋の天井に太陽を次々に飲む女神の姿が描かれていて、最後に太陽が吐き出されたところが朝である。面白い発想だ。

それから、RAMESES三世の墓を見た。叙事詩を描いた壁画があり、よい蛇と悪い蛇が出てくる。

最後の一つの墓は自分の好きなものを選んで見るのだ。お勧めは、THUTMOSIS Ⅲの墓だった。NO.34だ。ただ、谷の間にあり、登りがあってその後地中に入らなければならないそうだ。私とKAMさん、KATさんはそこに行くことにした。後でMATさんも追いついた。鉄製の階段を上ると入り口があり、そこから下って行く。両側には壁画があった。途中に小さな部屋があり、そこは“命の鍵”だけが一面に描かれていた。それから更に行くと大きい部屋があり、壁画が描かれてあったが、ここまで来ると蒸し暑かった。一段下がった部屋がありそこも壁画が描かれていた。まるでサウナのような暑さだった。サウナ付きエアロビクスをしたような気分であった。早々に外に出た。そして絵になりそうな峡谷の写真を撮った。

915までいて王家の谷を離れた。

53)大理石加工店

トイレ休憩を兼ねて大理石の加工を見に行くとい言う。アラバスタという名の大理石で白と緑がある。店頭で3人の男が実演をしていた。石を削る人、形を作る人、穴をきれいに加工する人だ。三日月形の鎌のような穴を開ける道具も何種類かあって成るほどと感心して見た。機械で加工して作る花瓶と手作りの花瓶は重さで分かると言うので持ってみたら手作りの瓶は実に軽い。それに透けて見えるくらい薄く削ってあるのだ。中に電球を入れると灯りがきれいだ。

サウサンは二階の店に案内した。そこで一番安いものはと聞いたら、アラバスタで作った糞ころがしだという。緑や黄に着色したのや無着色の3種類があったので薄いエメラルド色の無着色のものを3個買った。一個5ポンド(100円)だった。腹の部分はくり貫いて細かい細工がしてあるので感心した。

54)ハトシェプスト女王葬祭殿

 1020 HATSHEPSUT(ハトシェプスト)女王葬祭殿に行った。エジプト旅行最後の観光場所である。王家の谷の反対側にあり、あの尖った頂がこちらからも見られた。この女王はエジプト初めての女王だそうだ。葬祭殿までは電気トロリーで行く。葬祭殿は3階建てで禿山をくり貫いて作られたように見えるが、そうではなく、その前に建てられたのだそうだ。正面からは、柱が並んでいるのが見られる。3階に警官がいたので「銃撃はあの辺りで行われたのか?」と聞いたが、「知らない。」と答えた。きっと嫌な思い出に触れられたくないのだと思った。64人を殺した銃撃は2階の向かって左側で行われ、日本人も12人殺された。KATさんは冥福を祈ってきたと言っていた。

 葬祭殿からの見晴らしはよくて遠くまで見ることができた。吉村先生が立てたという研究所の建物もあった。

 この建物を見ていると、便意を催してきたので戻ることにした。やっとのことで入り口まで来ると、仮設の便所があったので助かった。嬉しかったので1ポンドと半端の25ピアストルの紙幣を上げた。

 この葬祭殿で、帰りながら、歌が出来た。沖縄民謡の“芭蕉布”のメロディで歌うのだ。

   空の青さと河の蒼    ナイルは流れる南から北へ

   豊かな恵みをもたらして 悠久の流れ

   太陽の国エジプト

 エジプトはナイルの賜物と古代の史家ヘロドトスが言ったが、4000年以上の長い歴史の中でナイル川は毎年氾濫を繰り返し肥沃の土をもたらした。また、エジプトは強烈な太陽の国であり、ファラオは太陽を崇めた。空は真っ青で太陽が燃えている。まさにそんなイメージが浮かんだのである。

 私は、空港に行くバスで出来たばかりのこの歌を披露した。

55)昼食

 1115 葬祭殿を出発した。レストランに行って魚料理の昼食だった。エジプトでの料理はこれと言って印象に残るものはなかった。量も少なかった。みんなに嫌がられたのは、ダヒーナというペーストだった。パンはまあ悪くはなかった。

サウサンが「これでエジプト観光は終わりました。」と言った。長いと思った旅行もあっという間に終わった。

56)サウサンとの別れ

 空港に向かうバスで、サンサンが挨拶をした。「このグループは、これまでで一番素晴らしいと思います。鈴木さん、KATさんなどみなさん楽しい人ばかりでした、」と言ってくれた。サウサンも私は優れたガイドだと思った。行動と判断が速くて適切、日本語が上手で冗談もうまかった。

 ルクソール空港に着くと、バスの外でサウサンに別れを告げた。私は、日本から持ってきた飴と名刺を渡し、「これからも頑張って下さい。」と言った。

 空港の便所で要るかも知れないととっておいた3.5ポンドは、大山さんに「次のエジプト旅行のトイレ代だよ。」と言って上げた。

57)カタール行き航空機で

1440に搭乗した。飛行機はやや小ぶりで満席であった。前の席が私たちやほとんど同じ行程であったJTBの「エジプト満喫10日間」などの日本人で、後ろがアラブ系の人が座っていた。アラブ人は男ばかりで異様な光景であった。1530に離陸をした。隣の席は、沖縄から来たYASさん夫婦でいろいろと話ができて退屈しなかった。

この飛行機にはJTBのガイドが隣に座っていた。食事を摂らず、りんごとミカンを持っていたので尋ねたら、「果物の持ち出しは自由なのです。持ち込みは出来ません。私は機内食が食べられないときは果物を持ち込んで食べるのです。」と言った。ホテルから持ってきたもののようだ。そのとき私もバッグにオレンジが入っていることを思い出した。入れたまま知らずに荷物検査を通ったのだった。周りの人に果物の持ち出しは自由であることを知っていたか聞いてみたら誰も知らなかった。

この飛行機は小さかったので気圧の変化が強く、それが原因で、帰国後耳鼻科に行く羽目となった。あるところに相談したら、航空中耳炎だから耳鼻科に行くように言われた。5日後に耳鼻科に行くと浸出性中耳炎だと言った。航空中耳炎というのは古い言い方だそうだ。お陰で金はかかったし、不快だしでがっくりした。

58)カタール空港で

カタール空港には1830頃に到着した。ここでは5時間30分の待ち時間がある。大山さんが、食事券を貰える様に交渉してくれた。お陰で食事券が貰えた。待合室にビュッフェがあり、そこで好みのスナックや軽食が貰えるのだ。有難かった。

MATさんと話したり、OTAさんたちと話したりした。NUさんは腹の調子が悪くて別の部屋の椅子で寝ているとのことだった。OTAさんも腹の調子がよくないと言っていた。

持ち込んだオレンジを食べた。皮が薄くておいしいオレンジだった。

10時頃に腹が減ってきたので、インド米とそれにかける煮込みのものを貰った。若い女の子たちの席に行き、一緒に食べさせて貰った。

その後、二人にストローの手品や輪ゴムの手品を見せた。

それからOTAさんたちファミリーの席に行き、ストローの手品やロープの手品を見せた。そうこうしているうちに搭乗時刻が近づいた。

59)関西空港へ

 005に離陸し、いよいよ無事に関西空港に着くのを願うのみだった。私の席は20Kで窓側だったが、大山さんが一番後ろの席でよければと言って通路側の席を探してきてくれた。それでそこに移った。後ろの席は一列全部空いていてJTBの人たちが移動してきた。私の横が2席空いていたので横になって3時間ほどうつらうつらした。目を覚ますとNUさんがトイレに行って来た所で、「向こうはエアコンが寒いので席が空いているなら移って来ていいか?」と聞いたのでどうぞと答えた。体調の悪いNUさんは少し脚を伸ばして休むことが出来た。

 機内食には日本食を選ぶことが出来た。私はキリンビールとワインを飲んだ。NUさんは蕎麦を食べたら少しよくなったと言っていた。

 関西空港には、1520に着いた。8時間半の長い飛行時間であった。

YASさんとMATさんのスーツケースが壊れていたので証明書を書いてもらった。私のキャリーバッグもあちこちが汚れていた。

皆さんに別れを告げて名古屋方面の11名は、1417に迎えの大川バスに乗った。運転手は2人付いていた。ところが、伊賀上野のドライブインでトイレ休憩を済ませたあと大渋滞が始まった。事故があったようだ。それと3連休の日曜日が重なって名古屋駅に着いたのは4時間半後であった。カタールからの半分の時間より多くかかったのだ。がっくりした。 

60)エジプト旅行を終えて

 ジャンボツアーズに乗り換えて参加したが、一人参加の料金が安かったので、その分をビール代やみやげ物代に当てることができた。グループが20人でまとまりがよく、いい人たちであったし、添乗員も現地ガイドも大変よかった。それで楽しい旅行をすることが出来た。

 「エジプトはナイルの賜物」をもじって「エジプトは世界遺産の賜物」だという印象を持った。どこへ行っても日本を始め、台湾や韓国や中国やヨーロッパからの観光客で溢れていた。また、ナイル川が狭いのが印象的であったが、水量は豊富で、ナセル湖にたっぷりと水を蓄えているのが凄いと思った。ピラミッドや神殿に見られる古代エジプト人の知恵と力の凄さには感銘を受けた。太陽の強烈な輝きと空の青さも心に強く残った。

 まさに“ナイルと太陽と世界遺産”の国なのだ。

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2009年1月29日 (木)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 7

42)コムオンボ神殿

 

   845アスワンにあるコムオンボ神殿に行った。この神殿は小高いところに建っていた。サウサンは、この辺りには金山があり、支配者の兄弟が争った話をした。壁の像の左が兄で右が弟だそうだ。ここには古代カレンダーと医療器具を描いた壁画があり注目すべきものである。フランス人のグループが多いので、サウサンはその場所だけ教えて、フリータイムに見るように話した。

ナイルメーターと呼ばれる深い井戸があり、ナイル川につながっていて、水がどの辺りまで来るかによって年貢の高をきめたのだという。

 

   神殿から下りてきたところの曲がり角に男が座っていたのでトイレを聞いたらすぐそこだと言った。トイレを済ませてトイレ番の若者に50ピアストル紙幣を渡そうとすると「NO!」と言った。それで1ポンドを渡したら受け取った。NOと言われたのは初めてだった。

 

   神殿の前の道路には、昼なのにナトリウム灯が点いていた。もったいないと思った。

 

   ここで予備に持ってきたボールペンが書けなくなった。Cairoでポーターにボールペンをやったことが悔やまれた。

43)ホルス神殿

 1050 エドフでは砂岩でできた巨大なホルス神殿を見た。グレコローマン時代に建造されたそうだ。神殿の中庭に入ると、建物の入り口の両側に巨大な“隼の石像”が立っている。中に入ると巨大な列柱群だ。一番奥に神を祭った部屋があった。大きな高い城壁のようなところがあり、サウサンは、壁画の叙事詩を説明した。ラムセス四世が戦争をしたことを物語っているのだが敵が河馬で表されているので笑ってしまった。

 

   この神殿のエリアにたくさんのみやげ物店があったので、ボールペンを探した。でも見つからなかった。ある店の前でOTKさんが、男にボールペンをくれと言われていた。それで「私に売ってください。ボールペンが使えなくなって困っているんです。」と言うと、3色のボールペンをくれた。それで記録を続けることが出来るようになって非常に助かった。後でカタール空港でOTKさんと話したときに、百円ショップで3本百円で買ったのだと言っていた。

 

   飲み物を売っている所で、ストローが落ちていないか探していたら、店の人が、ストローをくれた。2本貰って、その場でストローの手品を見せた。一方のストローにもう一つのストローを巻きつけて、それを一瞬にはずすという手品である。エジプト人たちは驚いてしまった。教えてくれというので、教えたができなかった。次に、輪ゴムの手品を見せた。びっくりしていたが、輪ゴムをあげて教えたら出来るようになって喜んでいた。

 

   石像の値段を聞いたら、ここでは2個で10$と言った。2$なら買うといったら、5$まで下げたがまだ高いので買わなかった。

44)ルクソールへ

 この後、ルクソールまで百数十キロ上るのだ。沿道には、ときどき街があり、高さの低い、箱を積んだようなエジプトの家が見られた。貧しそうな家が多かった。ナイル川に沿って幅の狭い緑地や農地があり、すぐ背後には前にも書いたようにセンセラ山という肌色の岩山が続くのだ。僅かな土地に街がある。農地ではロバが活躍しているのが頻繁に見られた。ホテルやレストランでよく出たモンキーバナナやサトウキビを栽培しているところもたくさんあった。高い木はナツメヤシが多かった。

 

   検問所があって、白い監視所が点在していた。そこでしばらく停まった。

 途中、珍しく工場があったが、セメント工場だそうだ。

 1430から1510の遅い昼食はミックスグリルであった。ビールは5$。ここでもダヒーナというパンにつけるペーストが不評で私のところに皿が集まった。

45)ルクソール

「ルクソールは、ナイル川の中流域に発達した都市。紀元前2040年から始まる中王国から、新王国、更に末期王朝時代の一時期に首都として栄えた。その間に、建造された巨大建築は“世界最大の屋外博物館”と呼ばれる。ルクソールの特徴は、ナイル川の東西で遺跡の趣が全く異なることだ。それは古代エジプト人にとって、太陽が昇る東岸は“生の都”、陽が沈む西岸は“死者の都”を意味していたことによる。」(エジプト観光局)

この日は、まず、東岸の神殿を観光するのだ。神殿の手前に、イスラムの古い墓地があった。背が低い平らな墓石だった。

46)カルナック神殿

1515 カルナック神殿は、面積が広く壮大な神殿である。ナイル川のすぐ傍にあり、アモン大神を祀る。建設に2200年を要したが、未完成の部分もあるという。入り口に羊の顔をしたスフィンクスが両側にずらりと並んで出迎えてくれる。羊はアモン大神の聖なる動物なのだそうだ。それにしては羊の肉を食べるのはおかしいと思った。

未完成の門を入ると巨大な列柱群がる。一本の柱の前で、サウサンが「今からゲームを始めましょう。柱の周りで手をつないで。」と言った。13人の人が手をつないだ。それほどたいへん太い柱である。こんな太い柱がなんと134本も立っているのだ。何のためにこんなにも柱を建てたのだろうか。上の方に柵のようなものがあった。サウサンの説明で柱同士の間隔が狭いので、明り取りの柵を作ってあるのだとわかった。

NUさんが、「ピラミッドよりこちらの方が凄いね。」と言ったが、同感であった。こんな大きな柱をどのようにして作り、運び、建てたのだろう。YASさんも同じ疑問を話した。

  大きな壁の石組みがわかるところがあり、NUさんは、「ピラミッドも同じ方法でやったのよ。」と言った。

オベリスクが残っている所が2箇所あり、真っ青な空を背景に聳えていた。

神殿を後にする頃には、白い満月が神殿の上空に出ていた。

47)香水瓶店

 トイレ休憩を兼ねて香水瓶の店に行った。エジプト独特のひょうたんのような形をした、装飾を施した香水瓶がいろいろと売られていた。お茶のサービスを受けながら、香水の説明を聞いた。見本を幾つか腕や顔などにつけてくれて香りを確かめさせた。香水も瓶も高くて買う気にはならなかった。割引をすると言った一番安い小さな瓶でも15$もした。MIUさんが夜店で2$で買ったのが羨ましかった。それでも買った人もいたようだ。いろいろな香水をつけたので、ミックされて気持ち悪くなったという人たちがいた。その通りだった。

48)ルクソール神殿

 1750 既に辺りは夕闇で灯りが点っていた。ルクソール神殿に入った。ライトアップされた入り口にはオベリスクが一基立っていた。パリの広場にあるオベリスクはここから移築されたのだそうだ。入り口の両側に王の座像が建っている。中には例によって列柱群もあった。夜空には十五夜の月が輝いていた。私は、月と神殿をテーマに写真を撮ることにした。三脚がないので手振れしたものもあったが、面白い写真が撮れた。ライトアップされた柱や石像は幻想的であった。

 

   私は、YAMさんやYASさんなどに撮った月の写真を見せた。YASさんには写しかたを教えたが、バッテリーがなくなってきたといって写さなかった。

49)まずい夕食、ひょうきんなウエイター

   1900に神殿を出発して夕食のレストランに向かった。すぐ近くのナイル川に浮かぶ船上レストランであった。肉の煮込みがメインであった。これは魚の煮込みのときと同じ、抹茶茶碗のようなこげ茶色の深い椀に、主にインゲン豆とトマトと肉が煮込んであった。肉は固くて少なく主としてインゲン豆であったので、「これはインゲン煮込みだね。」とみんなが言った。例によってダヒーナ(ゴマペースト)が出た。ハーブの臭いがきつく、みんなは皿を私に集めた。私は、「王様のようだね。貢物が献上される。」と言ってみんなが笑った。

 

   ハイネッケンの350ml缶が6$もした。エジプト米のピラフは例の如く芯が固いし、このレストランは量が少なくて最低であった。NUさんやMATさんは「パンを食べるしかないわね。」と言った。ただ、ウエイターがひょうきんな人でペーストはどうかと聞いて嫌だと顔をしかめると真似をして笑わせた。他にも「まずい。」と言うと真似をしたりして笑わせた。「まずいからペーストの分の金を返して。」と言うと面白い仕草で「NO.」と言って笑わせた。

50)SHERATON HOTEL

 いよいよ最後の夜となった。SHERATONホテルは世界中どこか似たところがある。次の朝は、王家の谷の観光に行く関係で出発が早い。朝食が530で出発が630だと言う。それでもKAMさんは街に出るのだと言った。元気がいい。翌日聞いたところでは、KATさんと二人で馬車に乗り、街へ行き、みやげ物で買い物をしている間1時間待たせてホテルまで送ってもらって10$で済んだと言って喜んでいた。

部屋の枕灯のつけ方がわからなかった。翌日YAMさんが、「電球をひねるとつくんだよ。」と言った。それでは分かるはずがない。

私は、シャワーを浴びて1040頃にベッドに入った。

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2009年1月28日 (水)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 6

33)石切り場

 

  エジプト最大の岩石を切り出した場所を見に行った。花崗岩の岩山があり、上の方にオベリスクを切り出そうとして失敗したものがそのまま残されている。もし、成功すればエジプトで最大のものになっていたはずだ。石を切り出すには穴を開けて、そこに木を入れ、周りを水で満たして木が膨張をする力で割ったと言うのだが、本当にそんな力があるのかどうか信じがたい。

  それはともかくエジプトにある巨大な柱、石像などは何らかの方法で岩を切り出したのだ。驚嘆せざるをえない。運び出すには丸太を敷いて転がし、ナイル川を使って筏で運んだようだ。では立てるときにはどのようにして立てたのだろうかと思った。失敗したオベリスクは上の方で切り出そうとしているが、切り出したあとどうやって下に下ろすのかも想像できない。古代エジプト人の力学の知識にも感心した。

 

  サウサンが説明で、「オベリスクの重さはどうして分かったかわかる?」と言った時に出来た小話。

  「オベリスクの重さはどうして分かったかわかる?」

   誰も答えられない。

  「本を読んだのでわかったの。」

  「ホーン。」

34)宝石店

 宝石店で、トイレを借りて店の中を見ていると、若い店員が2人、日本語を教えてくれと言った。大変熱心で一人はノートを出して書いてくれと言った。それで挨拶など基本の言葉をノートに書いてあげた。この二人は共にibrahimで一人はhamed、もう一人はshawkyという。私を日本語の先生だといい、特別に割引をしてあげると言ったが欲しい物はないので買わなかった。

 

  KATさんは、5万円でエジプト文字の入ったペンダントを買った。

35)イシス神殿

  次は、昨日、列車が遅れたので見られなかったイシス神殿に行った。船に乗り換えて島に渡った。船が近づくと神殿の外郭が見えてきた。この神殿は、フィエラ島からアギルキア島へ水没を免れるために移築されたクレオパトラゆかりのものだ。プトレマイオス3世から8世の頃のものだという。世界遺産である。大きな列柱のある建造物が残っている。いろいろな角度からカメラに収めた。

36)ファルーガ クルーズ

  ファルーガというのは、ヨットのように帆で動く船である。サウサンが「風がないと停まってしまうよ。」と脅かすように言った。もちろんジョークだ。川岸にはファルーガか何十艘も停泊している。その一つに乗船した。風はたっぷりあった。舟は静かに水面を走った。夕方のまだ明るい空には丸い白い月が出ていた。

 船上で少年が2人歌を披露すると言う。地元の歌の他に「幸せなら手をたたこう」を歌った。それから一緒に踊ろうといって掛け声の部分をみんなで歌いながら手をつないで輪になって船上で踊った。動作の激しい、でも楽しい踊りであった。みんなは一気に仲良くなれた気がした。

 

 その後で、少年は船上に手作りだというネックレスを一杯広げた。どれでも2$だといった。みんなはチップのつもりで買った。私は、白と黒の“命の鍵”のネックレスと青色の糞ころがしのネックレスを選んだが、OTAさんの友人が糞ころがしを欲しいと言ったので譲って、NUさんお勧めの“命の鍵”のネックレスを買った。

37)スーク(バザール)

  1740分から1810分まで、スーク(バザール)へ行った。MIUさんの奥さんが「婿にエジプトの塩を頼まれているの。エジプトの塩はいいって。」と言ったので、ガイドさんに塩を見つけるように頼んでおいた。バザールの中ほどに、ちょっとした店がありスパイスなどを売っていた。店には岩塩のようなものを売っていたので「あ、あった。」と言うと、店に人が「それはエステ用の塩だ。食用のは粉にしたのがある。」と言って持って来てくれた。アレキサンドリアの塩だそうだ。一パック2pだった。他に砂糖を買った人もいた。

 

  隣が衣料品を売る店で、NUさんは黒でと若い女の子はピンクのエジプトの模様の入ったブラウスをそれぞれ10$で買った。KATさんが余興に使うのだといって白い女性の服を買うために試着していた。前に頭に被るビーズのものを買ったのでそれに合わせるらしい。KAMさんは友人のために水タバコの道具を買ったといっていた。それはスパイス屋の人が向かいの水タバコの道具を売る店から持ってきたのを10$で買ったのだが、向かいの店では35$と言っていたそうだ。

 YASさんの奥さんが、水色のTシャツを買おうとしていた。2枚買うから負けてほしいといっていた。店の人は一着10$と言って譲る様子はなかったが、応援して9$で買うことになった。結局、みんなはここの二つの店で買い物をして他の店は見なかった。MIUさんの奥さんは、ガラスの香水入れを10pで買ったと言った。安いと思った。

38)魚料理の夕食

  1845今夜の夕食は、メインが魚料理のものであった。こげ茶色でそこが深い抹茶茶碗のようなものに魚を野菜と煮込んだものが出た。ブリティと言ってスズキの仲間だそうで、日本ではスズキを偽って売られたナイルパッチのことらしい。白身の魚で味はよかった。この店はイスラムの店でアルコールを売らないのでがっかりした。ノンアルコールビールはあるといったが高いのでやめた。この店で出たペーストも全く人気がなく、私とMIUさん以外には食べなかった。またまたみんなは皿を私のところに集めた。

39)KATさんのパフォーマンス

  船で今夜泊まるホテルに向かうとき、サウサンが私に何か歌ってと言った。私がいやと言うと、MATさんが、「私が歌う。」といって「贈る言葉」を歌った。その歌い方が、身振り手振りを交えてアクションを派手に動き回って歌ったのでみんなが大喝采をした。他に「You’re my sunshine[上を向いて歩こう]などを歌った。みんなから「道を間違えたね。吉本へ行くべきだったよ。」と言われた。駄洒落を飛ばしたり面白いことをしたり、本当にエンターテイナー精神にあふれた人だ。

(40)ゴージャスなホテル

 ナイル川の島の上にあるMOVENPICKホテルはゴージャスなホテルであった。私の部屋は4階だった。エレベーターの中は鏡張りで、部屋にも鏡がたくさん使ってあった。寝室と洗面所の間の壁には格子があり、それを開けると鏡があって、それを開けると洗面所が丸見えである。シャワー室がガラスで仕切られていた。サウサンが言っていたが、まだ建てて間もないホテルなのだそうだ。部屋からは、ナイル川の対岸のきれいな夜景が見られた。長い廊下もシックな感じであった。トイレにはステンレスの缶が置いてあり、用便で使用した紙は袋に入れて缶に捨てるのであった。後で聞くと、3階はバスタブがあるが、見晴らしはよくなかったそうだ。

  KAMさんが「バーにビールを飲みに行くから電話する。」と言ったので楽しみにしていた。電話がかかってきて出て行ったが、ビールは1階の外に出た隅っこで缶ビールを売っているのであった。500ml缶が6$であった。外は寒いので、それを買って結局は部屋に戻った。シャワーを浴びた後TVで写真を整理しながらビールを飲んだ。

41)早い出発

 朝食は、630からだった。場所が分からなかったのでホテルのスタッフに聞くと、親切に案内してくれた。別のところにあるレストランであった。すでにMATさんが食べていた。この日は出発が早いので、遅く来た人たちはゆっくりと食べられなかった。それで「折角いいホテルに泊まったのにゆっくりと食べられなくて残念。」と言っていた。

 サウサンが「今日は金曜日で、イスラムの休日です。学校も休みで酢。それで商店はあまり開いていないかもしれない、」と言っていた。730にホテルを出て船で渡り、バスに乗り、コンボイターミナルへ行った。バスや小型のバンなど30台あまりが順に出発した。

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2009年1月27日 (火)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 5

27)ホテルでうたたね

 

   1540頃にそこを離れてバスでホテルに帰った。まず、ホテルのロビーに入った。MOVENPICK HOTELという。サウサンは「この土地最高のホテルです。といっても二つしかありませんけどね。」と言ってみんなを笑わせた。サウサンはジョークもうまい。

食堂や売店のあるところを通り、階段を下りていくと湖が見えた。湖岸にはプロムナードがあり眺めが素晴らしい。ナセル湖岸に部屋が並びブーゲンビリアや白い花などや緑で溢れていた。部屋には外から直接入るのだ。

部屋に入ると古代エジプトを意識したデザインでバス、トイレは正面奥にあった。きれいな洗面所であった。素晴らしいホテルだった。

 

   長い旅で一刻も早くシャワーを浴びたかったし、頭も洗いたかった。すぐにシャワーを使ってさっぱりした。その後庭を散策した。青い空、青い湖、咲き乱れる花、緑・・・リラックス出来た。

 部屋に戻ると、1830の集合時間まで間があるのでベッドに寝転がった。眠るつもりはなかったのだが、疲れているので寝てしまった。ハッと気がつくと時計は1825を指していた。飛び起きてトイレだけ済ませて慌てて外に出ると、隣室のKAMさんも出てきたところであった。ロビーに行くと誰も来ていなかった。間違えたのかと思い売店の方に行ったがそこにもいないのでロビーに行った。しばらくしてガイドさんたちが来た。

28)音と光のショ-

  1830アブシンベル神殿の音と光のショーに出発した。想像ではイルミネーションでライトアップされた神殿が荘重な音楽の流れる中でレーザー光線によって幻想的な世界が繰り広げられるというものであった。期待に胸を膨らませて会場に向かった。眠っていて慌てて来たので上着を忘れてしまった。そのことをサウサンに言うと親切にも羽織っていた上着を貸してくれた。今日は説明する出番がないので休憩所で待っているから大丈夫だと言った。

 会場は神殿の前の湖岸にベンチの席が造ってあった。すでにたくさんの人が座っていた。NUさんが、左の方が大神殿の真正面になるからそちらがいいと言ったのでそこに座った。NUさんには大神殿が見えると言ったが、私には何も見えなかった。MIU夫妻が来たので本当に見えるか聞いたら、二人とも見えると言ったのでショックだった。でも、その辺りは何故か空席になっていた。

 

   ショーが始まった。予想とは違って、神殿の辺りに見えないスクリーンが張られ、そこに映像を写すという感じのやり方であった。スペクタクルではあった。ショーは神殿を造ったラムフェス2世のエピソードの物語であった。つまり叙事詩である。この日は日本語版であった。多くのフランス人がいたが彼らはイヤホーンでフランス語を聴いたようだ。映像と光で神殿がさまざまに変化した。ショーは19時から20時まで続いた。

29)夕食

 ホテルに戻って2015からバイキングスタイルのディナーであった。ビールは5$。NUさん、MIU夫妻、新婚のYAS夫妻が同じテーブルであった。MIU夫人が沖縄出身ということでYASさんたちと話が弾んでいた。MIUさんはビールを追加して振る舞ってくれた。

食事が終わる頃、先に帰っていったNUさんが戻ってきた。道に迷ったのだと言う。それで送っていってあげた。途中で大山さんに会い彼女も一緒に送ってくれた。水タバコを吸うところでKATさんとKAMさんが水タバコを吸っていて、NUさんを誘ったが疲れたと言って参加しなかった。

 

   部屋に戻ると、シャワーを浴びてからTVに写真を写して整理をした。そして1045頃に床に就いた。

(30)アブシンベルの日の出

 

   22日木曜日。400a.mに起床し洗顔、シャワーなどを済ませた。530頃ホテルを出て日の出を見に行く。上着は忘れずに着て出た。現地に着くともうたくさんの人が来ていた。昨夜と同じ観覧席に座り、今度は湖の方を見るのだ。

空が少し明るみ始めた。少しずつ少しずつ赤みが増していく。子供の頃に初日の出を拝みに行ったことや乗鞍岳の黄金の日の出を思い出していた。太陽を崇拝するということやアニミズムではエジプト人と日本人は共通点がある。後で私はそのことをガイドのサウサンに話した。

610太陽が見え始めた。金色の輝きが水平線に見えた。刻々と昇る太陽を私はカメラで写した。神殿を振り返ると明るんでいた。帰るときに太陽に向かって日本式に拝んだ。

ホテルに帰ると640頃で、そのまま朝食を食べた。席は昨夜と同じであった。MIUさんは卵焼きが大好きだそうで喜んでいた。私は卵は食べない。

31)アスワンへ

チェックアウトすると、時間があるので売店を見に行った。1$で買った石像があったので値段を聞くと35$だと言った。驚いてそこそこに飛び出したら、「30$」「25$」「20$」「15$」・・・と値を下げながら追っかけてきた。「NO!」と言いながら逃げた。

845頃にホテルを離れ、アスワンに向かった。アブシンベルにはところどころドーム型屋根の家が見られた。ドームは熱を逃し涼しいのだそうだ。コンボイステーションで待つ間子供がいる後ろの座席の人たちに輪ゴムの手品を見せ、やり方を教えて子供に輪ゴムを上げた。おとなは不思議がっていたが子供は知っていると言った。他に矢印の方向を当てるのもやった。

  915 バスが揃うと20台以上のバスが隊列を組んで帰路についた。

1155頃にアスワンハイダムに到着した。ピラミッドと同じ花崗岩を積んで造ったロックフィル式のダムで、ソ連の援助で7年かけて完成したのだと言う。上部105m、下部45mはそれほど大きくはない。しかし、湖は巨大でエジプトの水と電気を全てまかなっているそうだ。近くには記念のフレンドシップタワーが建っていた。

その後、サウサンの案内で細かい砂を採集に言った。前日からサウサンにペットボトルの空き瓶などを用意して置くように言われていたのでそれを持って行って採集した。本当にサラサラの黄土色の砂だった、NUさんが「手を入れると温かいわよ。」と言った。手で集めて瓶に入れたが、砂はサラサラなので一粒も手に付くことはなかった。

 

バスに戻り、NUさんに「どうして採取しなかったの?」と聞いたら、「うちで扱っているもの。」と言った。万博で砂の芸術を披露している国があったが、砂はいろいろな粒の大きさや色があって、アートの材料になるのだと言う。ペットボトル一本分の砂は1000円ぐらいとの鑑定であった。

32)昼食

 ナイル川の岸の高みにあるレストランでグリルチキンをメインとする昼食を食べた。ナンとパンと共にお皿にペーストが出た。ナンにつけて食べるらしかった。ところが、試してみてみんなが臭いがきつくて食べられないと言った。私は「おいしいよ。どこも変じゃないよ。」と言って食べた。このペーストは次の日サウサンに聞いて分かったのだが、ダヒーナ(ごまペースト)というものだった。みんなは私のところに皿ごと寄こした。その後も毎回このダヒーナが出るたびに私のところに集められた。多数に嫌われると私だけが変人に見られているような気がした。

    YAMさんが「このレストランの名は私の孫の名とおなじだ。」と言って、ピンクの建物を写真に収めていた。ナイル川の島のようなのが見えて景色のよい場所にあった。

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2009年1月26日 (月)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 4

23)バザール

  

  1830ハンハリーリバザール到着。カフェで水タバコを楽しんでいる人たちがいた。いろんなみやげ物などの店が続く商店街である。サウサンはここでは最初はとんでもない値段を言うかもしれないから、売る側の言い値の1/10ぐらいまで交渉するようにと言った。KATさん、KAMさん、NUさんらと店を見ながら歩いた。 

   

    KAMさんは頼まれた品物を買うつもりのようであった。歩いていると「1$!」とか「5$!」とか品物を持って声をかけてくる。非常にうるさい。ガラスの香水瓶、石の小さな像、ブラウスやTシャツ、かばん、化粧品、パピルス(多分まがい品)、帽子などを売っている。興味はないので適当に眺めて歩いた。

KAMさんがブランドのかばんを買いたいというので、かばんを売っている店で立ち止まった。グッチかなんかの最新のデザインのものだった。しかし、明らかに偽物である。「没収されるよ。」と言ったが「見つからなければ大丈夫。」と言う。値段を交渉したが、折り合わなかった。一度商店街から出たが、再びその店に戻った。若い二人づれの女の子たちにあった。品物をみたが結局買わなかった。

 

   KATさんは、ビーズでできた女性が頭に被るものを2個買って、バスの中で被って見せたのでみんなは大笑をした。

24)一等寝台車で

 1910頃バザールを離れて、ギザ駅に向かった。2100の夜行列車に乗るためだ。サウサンは「道路が渋滞しているので時間がかかるが間に合います。」と言った。ギザ駅に着くと列車が停まっていた。暗い緑色の屋根にボディはベージュ色だった。かなり古びた感じであった。この列車かと思ったら、サウサンは、その次の列車に乗るのだと言った。ところが、終着駅のアスワンにはあとから出る私たちの列車が先に着くことになるのだ。先に出た方は途中でトラブルを起こしたようだ。

 

  「駅のトイレはきれいじゃないよ。」とサウサンが言った。辛抱しようかと思ったが小便がしたい感じだったので入ることにした。小銭がないので駅の売店で一番安いガムを一個買って小銭を貰った。確かにきれいではなかった。50ピアストルをあげた。

 

  エジプトの鉄道は、イギリスについで世界で2番目に古いのだそうだ。エジプトのコットンを運ぶためにイギリスが作ったのだという。

 

  サウサンは「列車が定刻に来るかどうかはわからない。」と言っていたが、ほぼ時間通りに来たようであった。先に出た列車と同じ色の古びたものであった。我々が乗ったのはアベラといい、1等寝台車である。3号車と4号車が割り当てられていたが、私は4号車の7,8ベッドであった。1.2KATさん、3.4KAMさん、56MIU夫妻、9,10NUさん、11,12MATさん、13,14が新婚のYAS夫妻、15,161718が子供づれのグループであった。

 

   寝台車は、片側に通路があり、部屋は2畳ぐらいの広さで折りたたみベッドが2つ、洗面器、取り外し式テーブル板、鏡、ハンガーなどが付属していて、鍵は中からのみ掛けられた。一人なのでドアを閉めると閉じ込められた気がしたがその内に慣れた。トイレは各車両に2箇所ずつついていた。ただ、停車中は使用禁止であった。なぜなら、大小便を線路に落とす方式だからだ。世話をするのは各車両に男の車掌が一人ずついた。ベッドを作ったり、食事を持ってきてくれたりする。

 

  2100頃列車は静かに動き出した。しばらくすると食事が運ばれてきた。パン、ラムを煮たもの、具をのせたエジプト米のごはん、煮た野菜、ケーキ、大きなオレンジなどであった。ビールは500ml缶が7ポンド(140円)で安かった。

食事を運んできたときに、車掌に「英語が話せるから何かあったら言ってください。」と言っておいた。音楽を聴きながら食事をした。初めは私の好きなシャンソンだったが、すぐにローカルの音楽に変わったので残念であった。列車が駅に停まると音楽もとまった。

 

  食事を済ませるとやることがないので、ベッドを作ってもらい横になっていた。ドアがノックされたので開けると、車掌が立っていた。「日本語で『明日の朝食は、コーヒーが紅茶か』と書いてほしい。」と言った。その紙を見せるのだと言う。すぐに書いて上げた。その紙を見せて注文をとりにきたとMIUさん奥さんが言っていた。

 

  3時間余りうつらうつらとしていたら夢を見た。突然嵐が起きて家が吹き飛ばされそうになる夢だった。びっくりして目が覚めると列車はガタガタという音と風を切る音を出して速いスピードで走っていた。それで夢を見たのだろう。

 

   6時頃になると空が明るくなり始めた。外の景色が見えるようになった。窓の外は農村地帯だった。何もすることがないので、窓外の景色を眺めるより仕方なかった。少し遠くに肌色をした禿げた山並みが続いていた。山といっても低い山だ。手前には畑や林があった。木はほとんどがフェニックスやナツメヤシであった。畑は黒土できれいに耕されていた。耕したところで潅水しているところには白い水鳥が集まっていた。作物はサトウキビやキャベツやバナナやいろいろとあった。ところどころに人がいた。たまに背中に荷物を積んだロバや人を乗せているロバが見られた。時間がたつとロバは農民の貴重な道具であることが分かった。畑を耕していたり、荷車を引いたりさまざまな使われ方をしていた。畑を耕すロバは2頭立て鋤を引いていた。牛は一頭で鋤を引いていた。

時々ナイル川が姿を現したり、水路が流れていたりした。私は、ナイル川は巨大で川幅が広く、その両岸に広い農地が広がるイメージを抱いていたが、実際は川幅は100m前後で農地の面積も狭く、農地のすぐ間際まで禿げた岩山が迫っているのであった。こうした風景はアスワンに着くまで続いた。後日サウサンが説明してくれたところによると、この山並みはセンセラ山といい、鎖という意味だそうだ。ナイルの両側にセンセラがあるのだ。

ナイルエクスプレスだが列車は結構停車する駅が多かった。朝になると、大きい駅では列車を待つ人々が見られた。普通の駅は絵アラビア語の駅名が1箇所書いてあるだけで古ぼけて壊れかけた駅が多かった。

線路沿いや駅や運河やナイル川沿いや道路沿いなどどこでもごみが一杯落ちていた。それはCairoでも同じだった。エジプト人はごみを捨てて平気なのだろうか。そういうところは中国人と似ていると思った。中国でもごみがやたらと落ちている。ついでに言うとエジプトと中国が似ているところがまだある。商店がそっくりなのだ。まず、間口の狭い商店、衣類などを壁に掛けて売るやり方とか、陳列方法や値段を交渉しなければならないことなどだ。

通路の片隅に喫煙所があり、タバコを吸う人たちが集まった。

KATさんのスーツケースの数字で合わせる鍵が開かなくなった。大山さんも手伝っていろいろやっていた。車掌に七徳ナイフのようなものを借りてこじ開けた。結局鍵は壊れているらしくKAMさんがベルトを貸してあげることになった。かなりの時間すったもんだとやっていたが時間つぶしにはなったようだ。

YASさんが、ビールの清算をしたときに、10$紙幣を出したのに4$貰うべきお釣りが2$しか来なかった。車掌は英語なので困っていた。私が、車掌に2$少ないと指摘すると、気がついて2$追加してくれた。

朝食が済むと車掌に1ドルのチップを上げるように言われていたのであげた。しばらくすると、車掌が来て、「1$紙幣を10$紙幣と交換してほしい。」と言った。チップで集まったのを大きな紙幣にしたいのだ。私は1$紙幣でいいので交換してあげた。

隣室のMIUさんの奥さんがコーヒーを飲んでいた。ビュッフェから持ってきたのだという。ビュッフェは満席だったそうだ。

 

   朝トイレに行くとトイレットペーパーが品切れになっていた。大山さんが、「トイレの紙がなくなる恐れがあるからホテルの紙を持って行くといいですよ。」と言っていたのでポケットに用意していたのでよかった。

 

   予定では、12時間乗って9時にはアスワンに着くことになっていたが、大山さんが、「ガイドが80分ぐらい遅れると言っていた。」と伝えに来た。こういうことはよくあることのようであった。

 

  結局アスワン到着は、大幅に遅れて1040分頃であった。14時間もかかったようだ。サウサンが「私たちの前に出た列車はまだついていない。」と言ったので驚いた。

25)アブシンベルへ

 1045にやっとアスワン駅に到着した。バスに乗り換え出発したのは1100。アブシンベルまで3時間余りかかるという。アスワンには、1901年に造られた古いアスワンダムがあり小さな景色のよい湖を形成していた。この辺りはもともとはノビア人の土地で彼らは独立を欲していたが叶わず、他に移住をさせられたそうだ。故郷はダムの底に沈んだのだ。

アスワンを出ると砂漠地帯を走る。観光バスは、途中コンボイステーションに集まり、護送されるのだ。1000発には間に合わなかったので11時発になったのだ。コンボイは前後に1台ずつ付く。窓ガラスのない中型の車である。そこに銃を持った警官が乗るのだ。写真を撮りたかったが怒られるといけないので撮らなかった。

大きな箱に入った弁当が配られ、いつ食べてもいいと言った。それで12時ごろに食べた。シシカバブーが2本、鶏肉とラム肉などのおかずの箱と下に白いご飯の箱があったが、私は、ご飯とは知らず、おかずを先に食べてしまった。仕方がないのでご飯だけをよくかんで食べた。細長いパンは食べなかった。赤いりんごが付いていた。果肉は柔らかだがまあまあの味であった。水もボトルで付いていたので助かった。

 

  サウサンの説明では、エジプトの人口は、7000万人で、カイロに1500万人、ギザに14万人、アレキサンドリアに850万人、アスワンに15万人、ルクソールは忘れた。土地の95%はサハラ砂漠だという。

 

  途中まで来ると、サウサンが「蜃気楼が見られます。」と言った。遠くを見ると水があるように光っていて島が浮かんでいるように見える。私が教えてあげると、MIUさんの奥さんがビデオカメラを出して撮影した。初めて見るといって喜んでいた。更に進んでいると道路に逃げ水が見られた。

 

   バスの中で、サウサンは、Tシャツとポロシャツの見本を見せて、買うように勧めた。Tシャツが15$、ポロシャツが23$で、エジプト綿だという。象形文字で名前の刺繍を入れてくれるそうだ。見本はしっかりとした生地だったので多くの人が注文した。5枚買うと1枚サービスすると言うので5枚買った人もいた。

 

  また、ナツメヤシで種を抜いて代わりにアーモンドを入れた菓子も試食をさせて注文をとった。なかなかおいしい菓子だった。15$で5個買うと1個おまけが付いて2500円もしくは20$もしくは、100ポンドだと言った。私は、5個注文したが、後日ホテルで2000円を100ポンドに両替して支払った。

 

  Tシャツは、届けられたらすぐに着ている人もいた。女の子の赤いTシャツはとてもよく似合っていてみんなからほめられていた。

アブシンベルが近づくとオアシスもあった。アブシンベルには大きな湖があった。ナセル大統領が造ったのでナセル湖という。青い水をたっぷりと蓄えていた。いわゆるアスワンハイダムでナイル川を堰きとめて造った人工湖である。

26)アブシンベル神殿

   Abu Simbelには14:00頃に着いた。大小二つの神殿があるが、入場料は込みで70ポンドであった。中に入ると店が並んでいた。WCがあったのでみんなは用をすませた。

その辺りを歩いていると帽子を持った若者が「1$!」と言って寄って来た。「本当に1$?」と何度も確かめるとそうだというので1$渡して白いハットを買った。しばらく行くとMIUさんが「私も帽子を買った。3$で。」と言った。私のよりはしっかりしていた。KATさんも呼んで3人でハットを被って写真を撮った。

歩きながら出来たばかりの駄洒落をガイドさんなどに披露した。

「砂漠の真ん中にナセル湖を造ったのは誰のナセル業だ?」というものだ。

 

  アブシンベル神殿はナセル湖の前にある大きな小山を利用して建っていた。大神殿の前には4つの大きな像があった。その一人はこの神殿を建てた王だそうだ。神殿の中には大きな柱がある部屋があった。

 

   この神殿はナセル湖が出来るとき水没するので移築されたものであるという。本来は現在の湖岸近くにあったそうだ。このプロジェクトはユニセフによって行われた。コンクリートで骨組みを造り、その上に実際の岩を切り取って持ってきてくっつけてもとの形にしたそうだ。神殿の中も石像も元通りに移築されたという。神殿の奥にも石像があり春分の日と秋分の日に朝日が当たる仕組みになっているそうだが、計算間違いで一日ずれてしまったそうだ。この神殿を建てたのはノビア人の王だが数千年前の古代によくそんな計算ができたものだと感心した。大神殿は立像で、小神殿はレリーフであった。

小神殿を見た後、KAMさんとNUさんと私は、別の道を辿って帰ることにした。裏側には神殿の山に登れる道があったので、私とKAMさんは登ることにした。半分ほど登ったところで、下から声がかかり「すぐに下りろ。」と言った。驚いて二人は坂を駆け下りた。銃を持った警官が立っていて登ってはいけないのだと言った。私たちは知らなかったといって謝った。しかし、道があるし、誰かが登っているのを見たので「登っている人がいた。」と言うと、「警官だけは登っていいのだ。」と言った。「向こう側の写真を撮らなかったか。」と聞いたので、NOと答えた。最後は握手をして別れた。

 

   出口に来ると道が二つに分かれていた。私たちは、左側の道をとった。それが道に迷うことにつながった。しばらく行くと店が並んでいた。男が「何でも1$」と言って私たちを店に誘った。私とNUさんは黒い石像を買おうと思って店に入って見ていた。何でも1$ということはありえないと感じた。それで改めて確かめると、「見るだけ、1$。」と言ったのでやばいと思い、追っかけてくるのを振り切って店を出た。

少し歩いていると、また別の男が、手に石像を持って「1$」と言ってきた。「本当に1$か?」と言うとそうだといって店に来るように言う。店に入ったらやばいと思い、私は「ここでならいい。」と言った。何とか店に引っ張り込もうとしていた。「ここは警官の詰め所の前だから駄目だ。」と言った。私は、それならと思いそこで交渉を始めた。男に石像を見せてもらい金を渡そうとしたら店に来いとしつこい。ふと見ると男が立って見ていた。「あなたは警官か?」と尋ねたらそうだと言うので、「この男が1$だと言うので買うのに金を受け取らない。」と言ったら、男は諦めたのか1$でいいと言った。ツタンカーメンとその妻の二つの像を1$ずつで買った。

 

   その後、集合場所に帰ろうとして道が違っていることに気づいた。警官に道を教えてもらい時間までに帰ることが出来た。

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2009年1月25日 (日)

介護の職場の待遇を改善すべき

 今夜七時のNHKニュースで、介護福祉士の国家試験に13万人の受験者があったと報じた。

 一方で、介護福祉士の資格を持っている人で介護の職場についていない人は20万人いると言っていた。確か2ヶ月ほど前には50万人ほどいると聞いたのだが・・・。

 介護の現場では、この不況のときでも大幅な人員不足で、愛知県だけでも150人の募集をしたという。対象は、企業を首切られた人で無資格の介護職員の募集である。

 介護の施設では、正式の介護福祉士の資格と持った専門化を増やしたいと、政府はその人数に応じて金を増額することにしたという。

 しかし、介護福祉士の増員はなかなか難しいという。

 それは、介護の仕事が大変にきつい労働であるのに報酬が少ないからである。NHKは、平均給与が22万7千円であると報じたが、私が知る限りは、そんなにはもらえていないのが実情だ。多分税金や諸経費を引く前の賃金であろう。手取り月額15万円ぐらいというのが大半ではないかと思われる。

 そこで、政府はインドネシアやフィリピンからの助けを求めようとしているが、これは本末転倒ではないだろうか。外国人なら安い給料でも働いてくれるという甘い考えが見え見えである。

 本来は、介護の現場の給料をもっと働き甲斐のあるものにして、人間相手の素晴らしい仕事に働き甲斐を持てる施策をすべきなのだ。

 そうすれば介護の問題は改善されるはずだ。

 2兆円を介護の場に使ってもいいではないか>

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ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 3

14)警備

集合時刻まで少し時間があったので、ホテルの玄関前に出ると、警備車が左右に1台ずつ停まっていて傍に銃を持った黒い服の警官が立って警備をしていた。よく見ると全部で10人ぐらいいた。その様子を写真に撮ろうとしたが怒られるといけないので我慢をした。私が付近をうろちょろするので私の動きを観察しているように見えた。空は快晴で気持ちよかった。ホテルや周りの建物を撮影した。

15)第一ピラミッド

 この日はCairo市内の見学で、ゆっくりとした出発であった。現地ガイドのサウサンが少し遅い方が混んでなくていいと判断したようだ。915に出発した。バスには研修生として、ナダという若い女性が乗った。後で聞くとまだ18歳だった。Cairoの日本大使館で日本語の勉強をしているのだそうだ。

 最初の目的地は、4700年ほど前に建造された、あの有名なギザの三大ピラミッドである。バスは、8km続くというピラミッド通りを進行したが、例によって物凄い混雑である。自動車がひしめいているだけでなく、道路の脇には人々が群れていた。みんな簡易バスを待っているのだそうで、20人ぐらいのワゴン車が乗り合いのミニバスになっているのだ。このバスはどこでも停車してくれるそうで、その点は便利である。ちなみにミニバスは日本車が多いそうだ。大型の市内バスはなかなか来ないらしかった。それにこの渋滞では大型バスは大変だろうと思った。

 昼間だから道路の様子がよくわかった。お互いに強い者が勝つという感じで押しのけるような運転をしている。

やっとのことで、ピラミッドの頂点が見える場所まで来た。建物のすぐ向こうに見えた。駐車場に着くと既に数多くのバスが停まっていた。

是非見たいと思っていたピラミッドが目の前にあった。第一印象は、私が想像していたほどは大きくはなく、少々期待はずれであった。私が想像していたのは、200mぐらいの高さの巨大なものであったのだ。クフ王の第一ピラミッドは、駐車場の方からは日陰になっていた。太陽は左側にあった。フリータイムのときに、私は左側に行った。ラクダが何頭かいた。ラクダの客引きがうるさかった。左側は太陽が当たって輝いていた。

ピラミッドは現在は階段のようになっているが、元は花崗岩の化粧岩で滑らかに化粧されていたそうだ。それは第二ピラミッドのトップに少しだけ残っているので分かるのだ。サウサンは化粧岩のことを“きしょう岩”と発音するので“稀少岩”かと思ってしまう。それで暇なときにそのことを指摘してあげた。

第一ピラミッドに少しの時間登った。Cairo市内が遠望できた。一つ一つの岩は大きなものでどうやって積み上げたのか不思議であった。ずっと後でルクソール神殿を見に行ったときに、沖縄から来たYASさんから同じ疑問を聞かれたが答えられなかった。

ピラミッドの稜線の一部に真っ青な空を背景に太陽が出掛かっている輝きのある所があった。美しいと思って撮影した。ピラミッドが陰になっていい写真が撮れた。

16)第二ピラミッドに入る

次は、カプラ王の第二ピラミッドに行った。風が強く帽子を吹き飛ばされそうであった。サウサンの説明では砂嵐のときは一面見えなくなるそうでこれほどの風は大したことはないそうだ。第二ピラミッドは第一より少し小さい。このピラミッドは内部に入れるのだ。入り口に並んだ。カメラは大山さんが集めて保管をする。撮影をして、もし見つかると没収されると言った。

前にはドイツ人のグループがいた。入り口を通ると、背の高い男のドイツ人と女のドイツ人がすぐに戻ってきた。「どうして戻ったの?」と聞いたら、「狭いし急なので危ない。」と言った。折角25p(300円)の入場料をを払ったのにと思った。

中に下りる道は人がやっとすれ違えるぐらいの幅で高さは腰をしっかりとかがめないといけないのだ。それに急な坂になっており、木で滑り止めが階段状に作ってある。そこを一歩一歩下りていくのだ。あの背の高いドイツ人が敬遠したわけが分かった。この道はかなり長いのでしまいには腰が痛くなってしまった。その頃一旦平らなところに出る。ほっとする。そこから更に下に下りるのだ。だんだんと気温が上がるので暑くてたまらない。

やっとの思いで何かを祭ってあった、あまり大きくはない部屋に着くと、そこはまるでサウナの中にいるぐらい暑かった。そうそうに引き上げることにした。帰りは登りなので暑さが更に強く感じる。それに時々降りてくる人たちを待つので苦しくてたまらない。外に出たときは風が実に涼しく感じた。

写真を撮影しながら、バスまで戻った。ナダさんと話す機会があったので少し話してみたが、日本語はまだ殆ど話せなかった。サウサンはぺらぺらなので、どうやって日本語を勉強をしたのか尋ねた。TVで自然に覚えたと言うのだから天才的である。後でわかったのだが、「三年B組金八先生」やタモリの「なんでもいいとも」などが大好きだったそうだ。

17)三大ピラミッドを望む地点

 次は、三大ピラミッドが一番よく見える撮影ポイントに行った。眺望が開けCairo市内がぐるっと見渡せる中に三大ピラミッドが建っている。そこで集合写真を撮った。よく撮れていた。一枚1000円であった。

近くにラクダに乗れるところがあった。この辺りはサハラ砂漠の一部だそうだ。実はピラミッドの所でも乗れたのだがサウサンはやめたほうがいいと言った。こちらがお勧めの場所だった。一人3$だった。何人かの人がラクダ乗りを体験した。私は、ゴビ砂漠で2回も体験しているし、特に青砂灘の砂丘では満月の夜、中国の女の子たちと一緒にラクダで砂丘を歩いたロマンチックな体験があるので今回は乗らなかった。

18)スフィンクス

 1140にスフィンクスの場所に着いた。スフィンクスも見たいものの一つであった。スフィンクスの見えるところまで来ると人で溢れていた。観覧料は何と50p(1000円)であった。 

 サウサンは「今日はエジプトの人が多いね。」と言っていた。それでいつもより混雑しているようだった。スフィンクスは柵で囲まれ近くにはいけないが、見るだけなら入場券を買わなくても十分に見ることが出来る。傍に行くには入場券が必要だ。入って行くと大きな壁で仕切られていくつかの部分に分かれていたので迷ってしまった。結局回り道をしてスフィンクスへの入り口にたどり着いた。スフィンクスの左側の部分に出た。大きな像をまじかに見ることが出来た。外に出ると真正面に行って写真を撮った。背景はピラミッドである。そこには1215までいた。

19)パピルスインスチュート(研究所)

 次の場所に行く途中、ロバに引かせた荷車に野菜を積んだのやトマトだけを積んだ荷車などが見られた。トマトは1kg10円ぐらいだとサウサンが言ったのでみんなは驚いた。ロバはこの先農村部に行くと頻繁に見ることになる。

トイレ休憩を兼ねてパピルスの研究所に行った。ガイドの説明では、本物のパピルス工芸品を作っているのだという。観光地で売っているパピルスはまがいが多くてバナナなどの繊維を使っておりすぐ駄目になることが多いのだそうだ。

入って行くとまず製造方法を実演して見せてくれるところがあり、日本語を話す実演者が作り方を説明してくれた。パピルスはかなり大きな植物で緑色の茎をはがすと白い繊維の部分が出てくる。茎を30cmぐらいに切って皮をむきゆでた後、白い部分を細くして水につけておく。それを薄くして、すのこの上に並べていって乾かすのだ。結構手間のかかるもののようであった。

そこではパピルスから作った紙に絵を描いたものをいろいろと売っていた。高等学校の西洋史の時間にパピルスを勉強したことを思い出していた。私は、一番安い70p(1400円)のものを買った。古代のエジプトの絵が描かれていた。一割引で63Pで買えた。しっかりとした紙製の筒に入れてくれた。

20)昼食は中華料理

 昼食は、ナイル川に浮かんだ船上レストランで中華料理を食べた。入り口に「北京」とかいてあったが、大山さんが「エジプト風味の中華です、」と言った。ビールは7$と高い。チャーハンのようなご飯はやはり芯があって固い。

21)モハメッド・アリ モスク 

 1440頃にレストランを出発した。次は、モハメッド アリ モスクへ行った。途中、家を建築しているところがたくさんあった。サウサンが説明をしてくれた。先に書いたように、マッチ箱積み上げ式で、出来上がったところから住んでいくのである。一生未完成のこともあり、何代もかかって完成する場合もあるそうだ。

 このモスクは大きくて荘重である。ドームが5つあり、高いところにあるので遠くからも見ることが出来る。拝観料はわからない。モスクに入るには靴を脱がなければならない。手にぶら下げて中に入った。大きなシャンデリアやステンドグラスのあるドームであった。ドーム天井には装飾の図柄が描かれてあった。イスラム教のモスクに入るのは初めてであった。イスラム教では偶像崇拝は禁止なので中は跪いて礼拝をする場所だけである。

 

  モスレムの女学生がたくさん見学に来ていた。彼女らは、座って説明を聞く我々やサウサンを物珍しそうに周りから見ていた。時々サウサンがアラビア語で女学生たちにあちらに行けと注意をしたようだ。時間があれば彼女らと喋りたかった。モスクの丘からはCairo市内が一望できた。空には雲がたくさん浮かんでいた。

 

  このモスクでフリータイムにトイレに行ったが、はじめに間違えて女性用に入ってしまった。入り口には係が立っているのに何も言わなかったのだ。ちなみにエジプトではレストランやホテル以外は有料で50ピアストルか1ポンドを上げなければならない。私は1pをあげた。その後集合場所がわからず結局バスまで行ってしまった。待っているとガイドさんに連れられてみんなが戻ってきた。

22)考古学博物館

 この後考古学博物館に行くのだが、時間は16時を過ぎていた。博物館は中心部のダハリール広場にある。赤レンガ造りの建物だ。心配していたが19時まで開いているというので安心した。日本なら閉館時刻なのに人、人、人であった。さすがはエジプトの博物館である。入場料は50p。

 中に入ると、サウサンは「この博物館は見るだけでも1日あっても足りないのでポイントだけ説明しますから、私についてきて下さい。」と言った。そして要領よくあちらこちらと回り手早く説明をした。館内には巨大な石像や柱など発掘物が数多く展示されていた。

 糞ころがしのたくさんあるところで、サウサンは「古代エジプトでは糞ころがしがお守りとして大事にされました。それは、糞ころがしは、糞を集めて球を作りますが、どんどんと大きくなってもめげずに球を大きくするのがおめでたいと考えられたのです。」と説明した。そこで小話が出来た。

「糞ころがしは古代エジプト人のお守りなんだって。」「ふーん。」

 ロゼッタ石はレプリカで本物は大英博物館にある。かつて大英博物館に行ったときにロゼッタ石があるのを見てびっくりしたが、イギリスが持って行ったのだ。大英博物館にはその他にもミイラや貴重なエジプトの遺産がたくさん持ち込まれているのだ。

 ツタンカーメンの金のマスクと石の棺、木の棺二つなどはここに展示されていて、残りの金のマスクと石の棺とは王家の墓の中にあり後日見に行くことになっていた。ミイラ室に入るには別に100p必要だ。私とNUさんとMATさんは入らなかった。その代わりに、珍しい動物のミイラを見に行った。大きなワニのミイラ、サルのミイラ、犬、猫、鳥、巨大なシーラカンスのような魚のミイラまであった。これらはささげ物としてもしくは死後の世界の食物として作られたのだろうか?

 人間のミイラを見に行った人たちはすぐに出てきたみたいだった。私たちは動物のミイラを見ることを勧めた。

 トイレは2階にあり、女性用が左右に一箇所ずつ、男性用は真ん中に一箇所あったが、これは親切であった。トイレを済ませた後NUさんと残りを見て回った。古代にこれらの巨大な石像を作ったことに感心をした。

回っていると、2人の若い女の子たちがトイレに行きたいが細かいポンドがないというのであげた。KATさんもトイレを探していた。

  入り口の横にある売店に入ったが、カレンダーが100P2000円)、メモ帳が15p(300)円もするのには驚いた。博物館を出たのは1805であった。すっかり暗くなっていた。

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2009年1月24日 (土)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト- 2

8)エジプトへ-インドのビジネスマンと

 

12時にゲートインしたがバスの中で20分も待たされた。

QR514便は13時にカタール空港をテイクオフした。飛行機に乗ったとき、私の座席は38Kで嫌いな窓側であった。隣の席にはどんな人が座るのか気がかりであった。やっと現れたのは東洋系の男性だった。

彼が座るとお互いに自己紹介をした。彼は名刺をくれた。私は「持っていないのですみません。」と言った。彼は、インド人のビジネスマンで、名前はRAVINDRANATHと言い、「Windmillを売り込んで歩いている。」と言った。これからエジプトの西海岸に行きWINDMILLを設置するのだと言う。風が強くて好適地らしい。ヨーロッパや南米にまで行ったとのこと。まさに空飛ぶビジネスマンである。日本にも来たことがあり、ついでに伊勢神宮にも行ったそうだ。東京は交通機関が発達していて便利だとか、日本は平和を愛するので素晴らしいとか言っていた。平和を愛する尊敬できる国だということは2,3度言った。

私がガンジーの話をし、ガンジーも平和を愛する尊敬する人だと言うと、ガンジーのイラストがあるお札を取り出して見せてくれた。私が、五円玉を取り出して、「五円と御縁」の説明をし、穴が開いた世界でも珍しいコインでラッキーコインだと言って上げたときにガンジーの札をくれた。

私は食事のときにビールを2本飲んだが、彼は酒もタバコも飲まないといい、更にベジタリアンだと言った。肉や魚類は一切口にしないのだという。

 私がクロースアップ手品を見せると喜んでいた。そのうちのゴム輪の手品と簡単なロープからの輪はずしと日本の紐が一本になる手品を教えて輪ゴムと紐を上げた。帰国したら家族に見せると言った。

彼は、ノートPCを取り出すと家族の写真や彼の家やソーラーエネルギーシステムの写真などを見せてくれた。「大きな家ですね。」というと、「いやいや、小さいですよ。」と言ったが日本ならかなりの豪邸だ。 

 

先ほど窓側の席なのでがっかりしたと書いたが、飛行中窓から見える景色は非常に面白いものであった。カタールからはサウジアラビアの砂漠の上を通り、紅海に出て、サハラ砂漠の上に出るのだが、砂漠のさまざまな表情を見ることができたのだ。ある所では何故か黒くて大きな円い円形が次々と現れたし、岩のごつごつした状況が続くところもあった。紅海の付近だったか赤色の砂漠が広がっているところがあった。時々その風景を目で楽しみながらインド人と会話をした。こうしてCairoまでの3時間半は、いろいろと交流して楽しく過ごせた。

9)Cairo到着

 Cairo空港には、1550に到着した。古い建物なので別のところに新しいビルを建造していた。

エジプトの現地ガイドはサウサン(百合)さんといい、背が高い美人のエジプト女性であった。旅行中に知った彼女に関する情報を書くと、彼女の祖先にはトルコ人の血も混じっているそうだ。Cairo国立大学を卒業しているので優秀なのだ。娘と息子が一人ずついて、息子はCairo大学の学生だという。娘は中学生だ。結婚したのは18歳で美人だったのよと自分で言っていた。その頃名古屋に8ヶ月滞在したという。日本語は、TVで自然に覚えたのだそうだが、それにしてはほぼ完璧な日本語を話す。ただ、正規の日本語の指導を受けていないので漢字は殆ど読めないらしい。でも、難しい漢語も話すし、冗談も言えるので凄いと感心した。サウサンさんはエジプトを離れるまで私たちの世話をしてくれるのだ。

 

空港には外貨交換所が並んでおり、大山さんが、「明日、Cairo考古学博物館でミイラ室に入る人は100ポンド必要です。」と言ったので、日本円を交換してくれる所でとりあえず3000円分のエジプトポンドと交換をした。100ポンドは2000円なので、150ポンドになった。

 

空港を出ると、ナイル川のディナークルーズに向かった。驚いたのは、道路が自動車で溢れていることであった。自動車の洪水と言ってよい。ベトナムに行ったときに、モーターバイクの洪水に驚かされたが、それが自動車なので驚きは倍以上である。Cairo市内どこへ行っても大混雑だという。実際、Cairoにいる間それを実感することになった。交差点に信号機はなく、たまにあっても赤か黄のライトが一つ点滅しているだけである。交差点では我勝ちに車が突っ込むので大変である。絶対に譲ろうとはしないのだ。空港からの大通りはメイン道路のようであった。まっすぐに続く道路は自動車の川と思えばよい。道路にレーンが引いてあるようだが、そんなのはお構いナシで時には対向車線を走る車もある。相手をどかせたり警告を発したりするときにはプウプウと警笛をならすのだ。うるさくて耳障りである。夕闇が迫ると道路わきにはオレンジ色のナトリウム灯がつく。どこに行ってもオレンジ色だ。渋滞の中を走ってナイル川に着いたのは、19時すぎであった。

10)ディナークルーズ

ナイル川は想像していたのとは違って、たいした川幅ではなかった。川岸には、2階建ての大きなクルーズ船が停泊していた。入り口にはセキュリティゲートがあり、1階が広いダイニングルームでテーブルと椅子がぎっしりと並んでいる。二階は船上で、そこにはバーのカウンターがありカフェもあった。

 

バイキングスタイルなので食物を取りにいかなければならないが、間が狭いので大変そうだった。ジャンボツアーの席はバンドの隣であった。ガイドが「混んでくると大変なので1930分にスタートしたらすぐに取りに行ってください。」と言った。みんなは19時半近くになると取る為に並んだ。スープコーナー、生野菜コーナー、煮物コーナー、スープコーナー、パン菓子コーナーとあった。JTBHIS,台湾などのツアーグループで満席であった。

 

始まると船はいつの間にか動いていた。KAMさんが「動いているよ。」と言ったので見ると波がたっていて動いているのがわかった。それほど静かに船は進む。川岸や橋には明かりがついてイルミネーションのあるところもあった。

 

ステラという緑色の大瓶入りのビールが7$(850円)もしたので驚いた。「高いよ。日本より高いじゃないか。」と思わず叫んでしまった。生野菜やカットフルーツは絶対食べてはいけないとエジプト旅行経験者の友人たちから言われていたので食べないことにした。食べ物の種類が少なくおいしいと思うものはなかった。

隣の小さなステージでは、5人ほどの男性の楽団がローカルの音楽をやっていた。しばらくすると目玉のベリーダンスショウが始まった。ダンサーは一人でおへそを出して腰をくねらせて踊った。美人だが腹の周りは脂肪がついている感じで、後でサウサンが「あのダンサーはメタボリックだったね。踊りもうまくないし。」と言っていた。イナバウアーのように体をそらせることもなかったし、確かにうまくはなかった。途中から客席を回って踊ったり、客をステージに引っ張り出して踊ったりしていた。KATさんも一緒になって踊っていた。カメラマンがそういう写真を写していて、後で売った。KATさんはダンサーと写った写真を買った。とてもよく写っていた。

圧巻は男性のダンサーが腰にカラフルで大きなスカートのようなものをつけてくるくると回転するのダンスだ。スカートがきれいに開いて見事である。踊りは、20分ほど続いたのだが、その間ダンサーは回りっぱなしである。スカートは、胸や顔や頭の位置に上がったり下がったりし、体からはずして両手や片手で回したりと目まぐるしく動かす。それが実に見事であった。随所で思わず拍手が出た。

 船はフォアシーズンズホテルやハイアットという最高級ホテルが並んでいる辺りまで来て戻っていった。

11)ホテルへ

 渋滞をくぐりぬけてエジプト第一夜のホテルに着いたのは915ごろであった。ZOSER PARTNER というホテルだ。入り口にはセキュリティゲートがあり警官が数人詰めていた。大山さんは、部屋番号、モーニングコール、朝食、出発時刻、荷物出し時刻などを書く用紙を用意して来ていた。

部屋は7階であった。鍵はカードで、磁気の帯が一箇所ついている。ところが差し方を教えてもらわなかったのでいろいろと試しても開かない。通りかかったMIUさんにもやってもらったが開かない。仕方がないのでエレベーターに乗ると、6階からNUさんが乗ってきてやはり部屋が開かないのでみんな困っているという。結局スタッフに来てもらってやっと開いたが、磁気の部分の位置が問題だったのだ。

 

部屋からは、ナイル川とCairoの夜景が眺望できた。ツインベッドが置いてあった。

 

便所に行きたくなったので用便を済ませさて水を流そうとすると、どこを探しても操作レバーが見つからない。フロントに電話をして係に来てもらった。何と操作ボタンはタンクの上にありその上に衛生袋を載せてあったのだ。それで幾ら探しても分からなかったのだ。水を流した後、係の黒人の若者はスプレーを取り出して芳香剤を噴霧した。それが便所だけでなく部屋中に噴霧したのだ。臭くてたまらない。私はもういいと言って帰ってもらおうとしたが、どうしたのか動こうとしない。「チップをほしいのだな?」と気がついて1$渡すと出て行った。しかし、こちらは何も悪くないのに来て貰ってチップとは変な話だ。いささか虫がおさまらなかった。

ところで、便所の衛生袋は女性が使うだけでなく、エジプトでは男性も使うのだ。理由は、便器に紙を流すとすぐ詰まるそうで袋に入れて傍の缶やかごに入れるのだ。

 

まだ他に机の電球が切れていた。フロントを呼ぶのも面倒なので、使わない方のベッドサイドの電球を取り替えて使った。更に洗面器の貯水弁の操作バーが壊れていて抜けてきた。次の朝、枕銭は置かなかった。

よかったのはお湯の温度の調節とベッドと眺めだった。

12)エジプト旅行で最低のホテル

 1120日(火)500に起床した。645に朝食に行った。食堂は他のグループで満員であった。NUさんがいたので一緒のテーブルで食べた。バイキングスタイルだった。食事の終わりの頃コーヒーを取りに行ったらもう終わりだと言う。もう一つの食堂に行くとあると言った。そしてどんどんと片付け始めた。KATさんのようにまだ食べている客がいるのにである。

仕方がないのでそこへ行くと、テーブルは殆ど座っており、開いた席に座ろうとすると「予約席です。」と言われた。立ったまま食べている人も何人かいた。庭にカフェテリアがあるのだかそこも空席はなかった。KATさんも私も仕方なく立ったままコーヒーを飲んだ。何と言う不親切なことだろうと腹が立った。これだけ客がいるのだから早々と閉めるべきではない。昨夜のことといい、エジプトではこのホテルが最低で、グループの人たちも文句を言っていた。

13)ボールペンねだり

 荷物を部屋の外に出すとき、ポーターがいて、私を見るなり、「ボールペンをほしい。」と言った。「どうして?」と聞きかえすと、「日本製だろう?」と言った。「そうだ。だけど使わなければならないから駄目だ。」と言ってもしつこくくれという。「それなら交換をしよう。」と言うと、自分のボールペンを差し出した。まあいいかと思って交換してあげた。「新しいのだろうね。」と念を押すと、そうだと言った。後で気がついたのだがペンのホルダーが折れて無くなっている古いものだった。そのペンはその日の夕方には書けなくなってしまった。

 ロビーでその話をすると、三重から来たNAKさんも、「私もボールペンをくれと言われたのであげた。」と言った。その後行く先々でボールペンを欲しいと言われるのだ。どうやら彼らは日本製のボールペンを品質がいいと思っていて欲しいらしい。それに私のは2色ペンだからなおのこと欲しかったのだろう。

 海外旅行によく出かけるMATさんは、「発展途上国に行くときには、ボールペンとか飴などを持っていくといいのよ。買い物をして負けて欲しいときにこれを上げるからもっと負けてと言うと負けてくれるし、チップの代わりに飴を置いておくと喜ばれることもあるのよ。」と言っていた。なるほどそういう手もあったかと感心した。

 KATさん、KAMさんと会ったら、売店に行くと言ったので付いて行った。KATさんはエジプトの図柄の付いたハットを10$で買った。よく似合った。

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2009年1月23日 (金)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト ①

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト

20071118日(日)~25日(日)

(1)   出発まで

 かねてより一度エジプトに行ってみたいと思っていた。以前にエジプトツアーに申し込む寸前に母が入院し諦めたことがあった。その時には、妻は一緒に行くと言ったのだが、今回は遠いから嫌だと言ったので一人で参加することにした。

 阪急トラピックスのツアーに申し込んでから一週間ぐらいしたら、新聞にジャンボツアーズの一面広告が出た。比べてみると、一人料金が阪急より15、000円安く、オプショナルを入れてもトータルで35、000円安いようであった。それに加えて、カタールの首都ドーハで、トランジットのときに市内観光を出来るのも魅力であった。この会社の名は全く知らなかった。沖縄に本社があり、名古屋にも支店があると書いてあった。

インターネットで調べてみると、エジプトでジャンボツアーズを見かけたが安いツアーのようだという書き込みがあった。寝る所があればいいぐらいに考えて、トラピックスをキャンセルしてジャンボツアーズに申し込んだ。参加費は、サーチャージや保険も入れて231980円であった。

 

 ジャンボツアーズは、金を送金すると、すぐ電話をくれたし、添乗員の大山さんからも出発前日に電話があったのでよかった。ペットボトルが持ち込めるというので、お茶を3本と下痢のときのためにSUPER H2Oを一本買った。

(1)   関西空港へ

 出発は関西空港なので、名古屋駅から貸し切りバスで行くのだ。1830に名古屋駅の銀の鈴前に集合というので早い食事を済ませて、1730分頃に家を出た。銀の鈴に着くと誰もそれらしい人がいない。慌てて探していると男の人が、「エジプトに行かれますか?」と聞いてきた。(旗ぐらい持ったらどうだ。)と思った。

 バスは、大川観光といい、大型の観光バスで、わざわざ大阪から来たのだそうだ。僅か11名の名古屋からの参加者のために。

 参加者は、総勢20名で、名古屋近辺が11名、伊勢が6名、沖縄が2名、埼玉が1名であった。カタール航空とANAが提携運航している関係で、羽田からは飛行機が無料だそうだ。沖縄からは有料であったという。

 関西空港では、大山さんが出迎えてくれた。エジプトではUS$が使えるから何がしかを換金しておくといいと言ったので、両替所で換金した。レートは130円65銭であった。私は27$持っていたので、5000円分だけ換金した。親切にも1$紙幣を23枚と10$を2枚にしてくれた。

 大山さんが、「お腹が好いている人はラーメンでも食べるといいですよ。」と言ったが、夕食を食べてきたので何も食べなかった。

(2)   カタールへ

 関西空港を2355分に飛び立つQR-821便に搭乗をした。満席であった。座席は自分で取ったのでアイルの15Bであった。隣のAは後で分かったのだが、関東ただ一人参加のNUさんだった。

 定刻に離陸し、いよいよドーハまでの12時間30分の長い飛行が始まった。時計を6時間遅らせてドーハ時間にした。

カタール航空は五つ星ランク付けがされているそうだ。チャックが2箇所あり、首から下げる紐がついたお洒落な袋をくれた。中には、歯ブラシ、アイマスク、イヤプラグとイヤホーンが入っていた。客室乗務員は63カ国から採用されていて、この飛行機には日本人のフライトアテンダントが3人、韓国、インド、タイなど6カ国のアテンダントが乗っていた。

離陸後30分ほどして、機内食の提供があった。チキンとビーフの他に和食でうなぎの蒲焼が選択できたのでうなぎにした。茶そばもついていた。カタール航空は、イスラム国なのにアルコールは豊富に用意していた。インド人らしい男性の客室乗務員に白ワインをもらい、ビールも欲しいと言ったら、「飲みすぎるから駄目。後で。」と言った。「缶を空けないでくれないか。」と言うと、それも駄目だと言う。有料なのかと聞いたら、無料だと言った。結局、蓋を開けてキリンビールをくれた。NUさんが、「以前はそのままくれたのにね。」と言った。

(3)   客室乗務員と

 3時間余りうつらうつらした後、トイレにたつと、客室乗務員が簡単な日本語を若い日本女性に聞いていたが女性が席に戻ってしまった。それで私が、日本語での言い方を教えて上げた。乗務員は、二人いて、一人はインド人のBonnie Baptistaと言い、もう一人は韓国の朴克美と言った。朴さんの妹が日本語を習っていて自分も日本語を覚えたいと言った。ボニーも日本語に興味津々であった。ボニーの方はノートを取り出して私が教える単語などをメモしていた。私は、愛知県の国際プラザという所でボランティアで日本語を教えていると話した。Good morningとかGood afternoonなどの簡単な挨拶などを聞かれるままに教えた。

 その後、簡単な輪ゴムの手品やロープ手品を見せたらびっくりしていた。ゴムの手品を教えて輪ゴムをあげた。ボニーはヒンドゥ語で鈴木英彦とノートに書いてくれた。

5)ドーハ到着

 カタールのドーハ空港には19日朝の6時に到着した。気温は25度。タラップを降りて行くと、日の出がきれいなので写真を撮ろうとしたら、係官に「撮影禁止だ。」ときつく注意された。大変厳しい空港でこんなことは初めての経験であった。大山さんは、「この空港は軍用機も使っているからでしょう?」と言ったが、名古屋空港だって軍用機が使っているのに自由に写真を撮ることが出来る。

 カタール空港では、入国審査の建物まで10分余り電気自動車に乗っていかなければならない。これは帰りのときも同じで空港をぐるっと一周するような形である。なぜそんな不便なことをするのか理解に苦しむ。

 カタール空港の建物は真っ白であった。入国係官は全員女性で黒い衣装をまとっている。後で分かったことだが、カタール人は、男性は真っ白な衣装(トーフ)で頭にカプテーレをしていて、女性は真っ黒な衣装でベールをかぶっている。外国から来て働いている人と明確に区別をしているのかもしれないと思った。

空港の便所に入ったら大便所しかない。不思議に思っていると、日本人の男性が、「カタールでは男性用はないのだよ。もともと用を足すときは座ってする慣わしだったからだ。」と私をやや馬鹿にしたように話してきた。後で、休憩所でそのことをNさんに話していたら、何と左隣にその人が座っていた。彼はアラブが好きで、これからカタールとイエメンを観光するのだと言う。アラブ地方には何回も来ているようであった。彼の説明によると、カタールは石油よりも天然ガスの生産国なのだそうだ。面積は淡路島ほどだと言う。ところでカタールには男性便所がないのではなく、たまたまそこにはなかったのだという事が後で分かった。

6)カタールという国

 645分にバスは空港を出発した。カタールでの現地ガイドは、ラーズさんと言い、何とネパール人だという。カタールは、アラビア半島のペルシャ湾に向かっていぼのようにくっついている小さな半島である。海岸線が700kmもあるが海抜数mの平坦な土地である。人口は90万人で80%が首都に居住している。内訳はカタール人が30万人で、60万人の外国人が働きに来ているのだという。彼もその一人なのだ。1971年に独立した王国で、カタール人には税金はなく、教育も医療も無料という天国である。

 カタール市内は2階建てまでの低い建物が多く、白色が目立つ。道路は整備されているが、車が多いことに驚かされた。しかも、日本車が目立つのだ。KAMさんが、「トヨタのランクル(ランドクルーザー)が多いね。それで日本でもランクルの価格が上昇しているんだ。」と言った。「日本でランクルの盗難が多いからここ

に来ているのかも?」と言うと、「そんなことはないと思う。」と言った。

 交差点には、信号がめったになく、イギリスに見られるようなロータリー形式になっている。流入しなければならないのだが、次々に車が来ても、譲る車は全くないので、隙間を見つけるまでじっと待つしかない。カタールでは、ガソリンは海水から作る真水よりはるかに安いし、金持ちの国なのでみんな車で移動をするのだ。

7ドーハ市内観光

 まず、最初に、ドーハの悲劇で知られるサッカー競技場に行った。19931028日にイラクと対戦し、ロスタイムで点を入れられてWC出場を断念させられた所だ。

 次は、ラクダの市場へ行った。家畜の飼料や用具、馬や羊なども売買される。羊はスーダンやシリアから輸入されている。ラクダはかわいい目をして我々を迎えてくれた。みんなひとこぶラクダだがスーダンとサウジの2種類あるそうだ。1頭300$から600$ぐらいだそうだ。

 その後、青果市場を見に行った。さまざまな果物や野菜がきれいに積み上げられて客を待っていた。りんごやみかんやバナナの他に珍しい果物もあった。大山さんが、「買って食べてもいいですよ。だけど$で買ってもお釣りは現地の金だから気をつけて。」と言った。キャベツは日本にない直径45cmぐらいの巨大なものであった。カタールの土地は塩分を含み農作物に適していないので、これらのものは、全て輸入されているのだという。

 4番目には、馬術競技場を見に行った。室内の馬場と屋外の馬場の二箇所があり、厩舎も付属していた。室内馬場に入るとひんやりとした。馬術競技用のヘルメットが一つ忘れられていた。ラーズさんが「あそこがロイヤルボックスだよ。」と指差した。

 厩舎に入ると競走馬より少し小柄な馬が食事中であった。中には丸い目をした長い顔を柵から突き出してこちらを見ている馬もいた。真っ白い馬や栗毛など馬術用だけあってきれいな馬ばかりだ。えさの乾燥植物は全て輸入されているという。

 その後、新ドーハ市街を見に行った。この辺りは他とは全く異なり高層建築が殆どで、建設中のものもあった。キャラホールスーパーの一角にあるフランス系のカールクールというスーパーに入った。入り口にセキュリティゲートがありそれをくぐって入るのだ。かなり大きなスーパーで日本にも進出しているらしい。電化製品から食品まで売っている。もちろん日本のメーカーのPCTVなども並んでいた。品物は安いらしい。KOTさんたちは大きな袋に菓子などを買い込んでいた。$が使えるのだ。ただ、スーパーの中は撮影が禁止されているので残念であった。

 最後に海岸を見に行った。大きな湾に沿っていて対岸の新ドーハが見渡せた。快晴なので海の青色と共に美しい眺めであった。

 ガイドのラーズさんの日本語はかなり上手で、聞いてみると、ネパールにいるときに習ったのだそうだが、日本に来たことはないとのことで驚いた。他国に来て、

日本語で生活費を稼いでいるなんて立派である。

 ラーズさんは、「安倍元首相が明日ドーハに来てあの最高のホテルに宿泊します。」と言ってホテルを指差した。そして、スケジュール表を示しながら、彼も、手伝いに出る予定だと言った。「ラーズさんにガイドして貰う我々はVIP扱いだね。」と言って笑った。それにしても一体何をしにやってくるのかと誰もが思ったことである。

 市街の中心から空港までは、すぐであった。カタール市内見学は3時間半ぐらいであったが楽しかった。手荷物検査場ではスーツケースの中を見られている人がいた。我々のグループの中に、身体検査のゲートで引っかかり、別室に連れて行かれた女性がいたのだ。財布の中の何かが引っかかったらしく、すぐ解放された。

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2009年1月22日 (木)

google検索でヒットした!

 先ほど、試しにGoogleで「ららさんのつれづれ草」と入れて検索をかけたら、何とヒットした。嬉しい!!ヽ(´▽`)/

 昨年、googleのblogを使ったときは、全くアクセスがなかったのに、「ココログ」はヒットするのだとわかった。

 ココログの使いにくいところは、リッチテキストで色をつけると、つく部分とつかない部分ができたり、文字の大きさの調整も難しいことだ。

 特に困るのは、WORDで書いた文章をコピペするときだ。うまくできないのだ。WORDのタグとやらが邪魔するらしい。

 いいところは、もちろんたくさんある。

 新しい記事を書くとROBOTに知らせてくれることやアクセス解析がいいし、カテゴリー別に分類されることやコメントとトラックバックがあるとe-mailで知らせてくれることだ。

 続ける意欲がでてきたぞ。

  Cimg0022 ミラノのスフォルチェスコ城

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子供の体力の低下

 今朝の新聞によると、子供の体力が低下し、1985年以前の水準に戻ってしまったと書いてあった。

 昨日のTVニュースでは、体力の増強を図るために縄跳びをさせたり、賞状を出す様子が映されていた。

 運動クラブなどに属している子たちとそうでない子たちの二極化が見られるとも書いてあった。

 今の子供たちの中には体を動かすことを嫌う子も増えているようだ。PCなどのゲームで遊んだり、携帯電話で友達と交信したり・・・と、インドアの生活が多いのかもしれない。

 子供の体力が低下していることは、子供の生活が大きく変わったことにあるのだと思われる。そうだとすれば、今の子供の生活を洗い直し、子供たちが喜んで体を動かし遊べる環境を作らなければならないと考える。

 現在、大正・昭和一桁生まれの高齢者がたくさんいて中には元気な人も多い。この人たちは、戦前戦後の過酷な生活を潜り抜けてきた人たちだ。高齢者が子供の頃は、体力を補うために指導下で縄跳びをしたり、運動をしたりするということは皆無であった。

 そのかわり、家の手伝いや農作業や山野を駆け巡り、海川で遊んだりして否応なしに体を動かしてきた。体力は自然に備わったのだ。その貯金で長寿を保っているのだと思う。

 ノーベル賞受賞者の下村博士が子供のときにどんどんと自然の中で遊びなさいと言っていたが、その通りだと思う。

 ディズニーランドより、テーマパークより、自然の中で体を動かし遊べる環境を作ることが大事だと思う。地方にも2兆円を配ってそういう取り組みを始めたらどうだろう。縄跳びなど姑息な手段だと思うが・・・・。

 

 

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2009年1月21日 (水)

米国初の黒人大統領になったオバマ氏

[友達」blog アメリカ中の期待を集めて、首都ワシントンを埋め尽くした大観衆の前でオバマ氏が米国史上初の黒人大統領に就任した。

 CHANGEを唱えたオバマ大統領が自らその主役となった歴史的出来事である。21世紀最初のCHANGEである。

 彼の大統領就任演説は、力強いものであった。右、左と聴衆を見ながら一度も下を向くことなく語りかけた。日本にこのような演説ができる政治家がいたであろうか?

 リンカーンが使用した聖書を捧げ持ったミシェル夫人の祖先は奴隷であったという。朝日新聞によると、連邦議事堂もホワイトハウスも、黒人奴隷の労働力で建てられたものだそうだ。

 苦難の日々を送った先祖の奴隷たちのいったい誰が、この晴れやかな日が来ることを想像できたであろうか。

 彼は、演説の中で、今日のアメリカがあるのは、それを築き受け継いできたアメリカ国民のおかげだと述べている。その中に奴隷の苦しみと屈辱ももちろん含めていたと思う。

 ブッシュ前大統領は、キリスト教原理主義を前面に立て、テロ対策と称してイラクを崩壊させた。世界の警察として力で世界を支配しようとして失敗した。

 オバマ大統領は、力ではなく協調を主張している。

 宗教についても、「キリスト、イスラム、ユダヤ、ヒンドゥなどさまざまな宗教、言語、文化を持つ米国の伝統は、弱さではなく、強さの証だ。米国は多様性の中で共通する人道主義を重んじ、新たな平和の時代を作り上げなければならない。」(朝日)と述べ、対立抗争や戦争よりも平和に希望を抱かせた。

 金融危機から脱し、経済を立て直すことにも大きな期待がかかるが、ダウは330$以上も下げて新大統領に冷や水を浴びせた。

 新自由主義経済政策によるアメリカ中心のグローバリズムが破綻した今、どのような舵取りをするのであろうか。

 世界中から注目され、大きな期待を集めてのオバマ大統領だが、就任した日がピークで後は支持率が下がる一方のどこかの首相の二の舞にならないtことを祈っている。

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2009年1月20日 (火)

金融・経済危機と中国農民工の悲劇

 今朝の朝日新聞は、「農民工 凍える春節」という記事を載せた。

 旧正月で祝う中国では、1月26日の春節は一年で一番大事な時だ。都会に出稼ぎに出ていた人たちも故郷の村に帰る。この日を楽しみに一生懸命に働いてためた金を持って、お土産を用意して帰るのだ。

 ところが、今年の春節は様変わりだ。働いていた工場などが倒産してしまった人が続出している。中国政府の発表では、失業者1400万人だという。

 切り詰めて貯めた金を持って取り敢えずは故郷を目指すのだが、そういう人たちを狙う強盗や盗人が続出しているのだという。

 貴州省貴陽のバスターミナルでは毎日30件以上も強盗事件が発生しているそうだ。1600元と荷物をすっかり取られた人や6年ぶりに故郷に帰るため貯金した2万元を取られた人の話が紹介されている。

 2万元を取った人は、自分たちもやられた人だという。

 昨年もNHKスペシャルでこのような強盗のことを取り上げていた。今年は更に酷くなっているのだろう。

 被害にあった人たちの心中を察すると胸が痛んでたまらなくなる。

 元はといえば、ウオール街の金儲けに端を発した世界金融・経済危機が善良な人々を苦しめ、犯罪まで犯させているのだ。 

 

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2009年1月19日 (月)

世界的金融・経済危機の最大の教訓

 サブプライム問題に端を発した世界的金融危機は、昨年秋から実体経済にもダメージを与え始めて、世界の経済が大混乱している。そのために世界各国で貧窮層、貧困層など弱い部分から生活を維持するのに困窮する事態となっている。

 株とか金融商品をやっていないから影響がないと、始めはたかを食っていた人たちもそうではないことに気づかされた。

 一年前の年の暮れには、トヨタが2兆数千億円も利益を出して、世界一になったと発表してたのが、一年後には、数千億円の営業赤字と大量の派遣解雇を出すに至った。

 元はと言えば、新自由経済主義の考え方の基に、ノーベル賞を受賞した経済学者たちが考え出した、金融工学とかいうものを駆使して、新しい難解な、騙しやすい金儲けの方法を作ったのだという。その発信源はウオール街である。

 この世界は勝ち逃げが一番でごく一部の人たちは大儲けをしたようだが、殆どの金融機関や投資機関や証券機関などはその危険性に気がつかず、気がついたときにはどうしようもない損害を出していたのだ。

 どこの政府機関も国際機関もその危険性に気がつかなかった。

 つまり、すべての金融・経済専門家も政治家も誰一人として気づかなかったのだ。

 みんな”馬鹿”だったのだ。これが今の、100年に一度と言われる金融・経済危機の最大の教訓であると思う。

 水野和夫氏は、その著書「金融大恐慌」の中で、「グリーンスパン氏に『100年に一度のできごと』などと言って欲しくない。何故なら、彼も今度の危機の加担者なのだから。」と指摘している。彼は在任当時資本の側からは「神様」と称えられたが、一般の民から見ると無能・無策の人であったといえる。

 アメリカの貪欲な金儲け主義のために世界が踊らされ、それが破綻するとアメリカ国民のみならず世界中の67億の人々が大打撃を受けたのだ。

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2009年1月18日 (日)

心づかい

 午後、栄の三越百貨店にあるファンケルへサプリメントを買いに行った。ヴィタミンンB,C,Eの3種を籠に入れて会計をしようとしたら、店員が、「ヴィタミンEはもうすぐ10%増量のキャンペーンが始まりますが、どうなさいますか?」と尋ねた。キャンセルするのも悪いような気がしながら「今からキャンセルしていいですか?」と言うと、「いいですよ。」と言った。それで、3日後にまた来ることにした。ちょっとしたことだが、親切な対応に嬉しくなった。

 百貨店の出口を出ようとしたら、すぐ前を若い女の子が数人出て行った。最後の女の子は後ろも確かめずにドアを閉めた。普通は、後から誰か来ているかもしれないので確かめて、もし来ていたらドアをおさえて待つのがエティケットだが・・・と思った。 

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2009年1月17日 (土)

雷の話

 今日の日本語教室で韓国の人から面白い話を聞いた。韓国では、雷が鳴ると「心のやましい人は雷が落ちるよ。」というそうだ。また、雷に打たれた人に対して「心が悪いからやられたのだ。」と言うらしい。

 日本では、雷は大昔には「神鳴り」と言っていたようだと「中日春秋に」書いてあった。俵屋宗達の「風神雷神図」には、太鼓をたくさん肩に掛けた雷様が描かれている。日本人のイメージとしては、神様なのだ。しかも、何故かへそが大好きな神様なのだ。

 子供の頃、裸でいるとき雷が鳴ると「雷様におへそをとられるよ。」と母親に言われたものだ。

 他の国では雷をどのように思っているのか知りたいものだ。

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メタボ予防か?歩く人が増えた

 メタボリックシンドロームが成人病予防に加えられたせいか、ウオーキングをする人が増加した。いつもの川沿いの道をそれまでに見かけなかった中高年の人が歩いているのを見かける。女性よりも高齢の男性が増えたようにも感じる。

 私は、ウオーキング歴が長いが、始めの頃から見かけている人は数人になってしまった。

 朝、暗いうちからでも早起きの人は歩いている。春から秋の間は歩く人が非常に多かったが、さすがにこの寒さでは少なくはなった。

 春が来ると、またぞろぞろと歩き始めるに違いない。でも・・・と私は考える。寒くても続けて歩くことが大事なのではないかと。

 長年の習慣で早朝に歩くので昼間はどうも歩きづらい。朝、起きるときには毎日心の葛藤があるが、意を決して起きる。暗くて寒い冬の間の戦いだ。

 起きてしまえばどうと言うことはない。外に出て元気よく歩く。川沿いに出て歩いている人に出会うと「頑張っているな。」と思い、勇気付けられる。いつも見かける人だと「ああ、この人も歩き続けているのだ。」と安心したような気持ちになる。

 歩く姿勢だが、下を向いて歩く人が多いのはどうしてだろう?何も落ちてはいないのに。やはり、顔をあげて前を向いて颯爽と歩くのが健康にはよいと思う。

 8ヶ月前までは、安物の1000円から2000円までのスニーカーで歩いていた。思い切って10000円のウオーキングシューズを買ったら確かに歩きやすい。歩く姿勢までがよくなった気がする。

 早く春が来ないかと思いながら今朝も歩いてきた。

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2009年1月16日 (金)

トラックバックの練習①

トラックバックの練習に「トラックバック野郎」にアクセスしたが、今回でさようならとは!ざんねん。

 トラックバック野郎

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小泉元首相の郵政選挙の遺産のつけ

 補正予算が衆議院を通過し、よほどのことがない限り、国民が大反対する「定額給付金」が支給されることになる。法案が、参議院で否決されても衆議院で2/3の多数決で可決されればよいからである。

 これは小泉元首相が行った郵政民営化の是非を問う選挙で自民党が圧勝したから可能になったので、その付けが今になって回ってきたのだといえる。

 前回の衆議院選挙の時には、小泉の人気が高くてまんまとそれに乗せられてしまった国民が多かったからこんなことになってしまったのだ。

 派遣社員や非正規社員の問題も郵便局が民営化で減らされて過疎地では困っている問題も病院が閉鎖されたり、介護の職員が大幅に不足している問題も・・・全ては小泉政治のせいだとやっと国民が気づいたようだが、とき既に遅しである。

 もっと政治に関心を持って、次の選挙ではよく考えて日本の前途を誤らぬ選択をすることが求められる。

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茂木健一郎訳「脳にいいことだけをやりなさい」から学ぶ 最終回

 茂木さんは、「絶対に見逃してはならないポイントは『人は変わることができる』ということです。これは脳科学でも実証されています。」「脳は感情や記憶の中心となる回路をつくり変え、身体全体にダイナミックな変化が起こるのです。」と言っています。

 

 7つの「脳にいいこと」を実践するときに次の法則に乗れば、より効果的です。

      あなたを広げていくものが、あなたを幸せにしてくれます。(拡大の法則)

      宇宙はあなたを支えています。(支援の法則)

       あなたが価値を認めるものが、あなたの周りに増えていきます。(引き寄せの法則

これらの3つの法則とは、

① 拡大の法則

「宇宙にあるものすべてはエネルギーでできている」ということが科学的に証明されています。思考や言動、周りのものすべての物事は、あなたのエネルギーを拡大させるか縮小させるかのどちらかに働いていて、エネルギーが拡大すると、あなたはより幸せになることができ、エネルギーが縮小すると、それだけ幸福感は減少します。

エネルギーを拡大させるような考え方、感情、行動を選ぶことが大事だと言うのです。

幸せだと認められる人は、酸素吸収の量の増加、血管の拡張、筋肉の弛緩、心拍数の安定、脳機能の統合性の高まりといったエネルギーの数値が高い人なのです。

すべてのネガティヴな感情――怒り、悲しみ、嫉妬――は、エネルギーの流れを阻害します。筋肉がこわばり、呼吸は浅くなり、循環機能の活動が妨げられ、ストレスホルモンも増えているでしょう。エネルギーが縮小すると、免疫システムが破壊されるので、病気になるリスクも高くなります。

何かを選択するとき、エネルギーの拡大を感じる方向を選ぶとうまくいくのです。

② 支援の法則

何か困ったことが起きたとき、「なぜ自分だけがこんな目に・・・」と思わずに、「自分に必要だから起こったのだ」と考えることです。「これは最終的にはきっと私のためになる。人生に“間違い”などと言う言葉はないのだ、必ずここから何かいいことが学べるはず」と思うのです。

“すでに起こってしまったこと”を嘆いたり、変えようとしたりしないということが大事です。ムダなあがきをせずに「宇宙はいつも自分を支え成長させてくれている」と信じることが、自分と脳を成長させるカギなのです。

③ 引き寄せの法則

これはわかりやすく言えば、「すきになったものが自分の周りに集まってくる」ということです。

車が欲しい、金が欲しい、愛されたいなどと足りないものに目を向けることではありません。かなしいときや満たされないときにでも、ひたすら感謝の種を探し、どんなに小さな進歩でもそれを喜ぶようにするとすごいことが起こります。

 

 引き寄せの法則に従えば、幸せになるのも不幸になるのもすべて自分次第なのです。一つひとつの出来事に、落ち着いて対応をしようと心がけていれば、それがいつか脳内に定着し、いつでも穏やかでいられるようになります。

 

 逆に、人生の出来事に「被害者としての対応」が身についてしまったら、同じ問題は繰り返し起こってしまいます。(これは、引き寄せの法則によるもの)

 

 私たちから幸せを奪う習慣は、主に3つ――不平を言う、他人のせいにする、自分を恥じる――ですが、どれも間違った被害者意識から生まれるものです。

 

 不快なことばかりに注意を向けていつもグチをもぼしていれば、そのエネルギーは徐々に強固なものになって、嫌いな人や厄介な問題をますます呼んでしまいます。

 

 自分におきた不幸を、他人や状況のせいにするのは、自分の力をないがしろにすることです。責任を転嫁することによって、本来自分が持っていた力を他人や状況に譲りわたしてしまうからです

 

 あなたの周りの「あまり幸せでなさそうな人々」はいつもグチをこぼしていたり、他人への不満を口にしたり、済んだことをいつまでも後悔しているのではありませんか。そんなことに多くの時間を費やしていては、幸せを感じる余裕が生まれるはずがありません。

 

 マーシーは、「幸せ」になるには、「脳にポジティヴな回路を作る」ことだと言っています。

 

 人は1日に6万個の物事を考えていて、その95%は前日も前々日も考えていたことだいいます。そのうちの80%がネガティヴなものなのです。

 

 アメリカの国立衛生研究所が脳の血流や活動の様子を測定したところ、ネガティヴな考えは、脳の中の憂鬱や不安を引き起こす部分を刺激するといいます。一方で、ポジティヴな考えによって、脳内は穏やかになり、有益な影響が生まれていることがわかりました。

 

 人の脳には太古より「恐怖」と「不安」という「幸せのバリア(障壁)」がプログラムされていて、脳の警報システムとして働きます。それで楽観的に考えるよりも悲観的に考える方を選んでしまうのです。

 

 脳の研究をする心理学者のリック・ハンソンは、

 「私たちの脳は、ネガティヴな考えをマジックテープで留め、ポジティヴな考えをテフロン加工ではじいているようなもの。」と言います。

研究によれば、1回のいやな経験を乗り越えるには、それよりずっと多くの楽しい経験を必要とするといいます。

普通の人ならたくさんの讃辞よりも、たった一つの痛烈な批判の方をいつまでも覚えているものです。このように、自分を苦しめる考えや経験に強く反応してしまう傾向は、心理学用語で「ネガティヴ・バイアス(否定的傾向)」と呼ばれています。心理学者のジョン・カシオッポは脳機能を電気的に測定する実験によって人間にこういう傾向があることを証明しました。

ネガティヴな経験が“強烈”な理由は、前に述べた脳の中の小脳扁桃という部分に関係があるらしいのです。

私たちは生まれつき、ポジティヴな考えや経験より、ネガティヴなものの方を強く記憶に留める傾向があります。この傾向を修正するには、意識的にポジティヴなものに注意を向けること、つまり、「思考をプラス方向に走らせる」ことが必要でしょう。それには「意識して」うれしい経験に注意を向けることでうまくいきます。人がそれを意識しはじめたとたん、それまでみえていなかった幸せに気づくようになり、たちまち幸福感が高まるのです。

鏡に向かって自分を褒める、ただそれだけ自信がつきます。

思考をプラスに走らせるには、積極的にうれしい経験を積み重ねることが必要です。ちょっとでもいいことがあったら見過ごさず、意識するのです。ポジティヴな考え、きれいなもの、おいしいもの、小さな成功、問題の解決など、何でもいいから「うれしいな・楽しいな」と思うことを毎日見つけてください。そして、それを深く心に刻み、“感じる”のです。

何事でも意識すると、脳の中の「RAS(網様体賦活系)」を活発化させることができます。このRASは脳幹にある細胞の集まりで、たくさんの情報の中から重要なものを選び出し、私たちの注意をそれに向けさせる役割を果たしています。

このことから、前向きな気持ちにさせてくれるものを意識して探すことで、RASが次から次へと「幸福」を見つけてくれるようになります。

心理学研究組織ハートマス財団の研究で、感情によって心臓の活動がどう変化するかを調べ、その結果、不満を感じている人には、不整脈が見られ、それはストレスホルモンやコレステロールの放出、血圧の上昇など、身体への悪影響をもたらすといいます。

一方、満足を感じている人は、心拍リズムが安定していて、アンチエイジングのホルモンとして知られるDHEAなどの有益なホルモンの精製がうながされ、血圧は安定し、認識力が高められ、免疫機能が強化されるのです。

◎脳が喜ぶことを毎日する

ありがとうと感謝する→幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなので  す。

いいことをいっぱい見つける→他の人や自分や周りから。

人を一度許す→受けた傷がどんなに大きくても、許さなければ本当の幸せは得ら れない。

 相手を恨ん 

       相手を恨んだり憎んだりするのは、自分が毒を飲んで相手が傷つくのを期待するようなもの。

許すことは 

赦すこと  相手を赦すことは“自分のため”のものです。 

他の人に親切にしてあげる→相手だけではなく自分も幸せな気持ちになる。

小さなことでも世の中にとって大切だと思うことを心がける

 他の人のためになろうとすることで穏やかさや健康や幸福感につながるということは数々の研究によって証明されています。

と体に栄養を与える

ほどよい運動をする

 東洋医学では身体の中に活力の源があると考えられてきました。中国では「気」、インドでは「プラナ」と呼ばれ、これが満ちてくると、身体の機能が活性化され、治癒力が向上し、幸福感をさえぎっている感情がとり除かれるといいます。

 運動によって、脳に酸素が供給され、身体に前向きな影響を与えるような化学物質やホルモンの分泌が促進されます。

ハーバード大学で精神医学を研究しているジョン・レイティの調査によると、運動の後には幸せの化学物質――ドーパミン、セロトニン、ノルエピネフリン――が増えていることがわかりました。

 

 運動はまた、喜びの化学物質エンドルフィンを増やすため、運動後には爽快感は5倍に増幅されます。

 コロンビア大学のヘンリー・S・ロッジ助教授は、「人の細胞は1日に1%ずつ入れ替わり、3ヶ月ごとにすべての細胞が入れ替わる」と言っています。運動をすると、細胞を成長させようとする化学物質が筋肉から放出されますが、運動をしなでいると、筋肉は細胞を死滅させる化学物質を放出するようになります。

 

 ※病気で入院し寝たままでいると1週間で筋肉が衰えることはよく知られている

 。H.S

腹式呼吸をする

インド伝統医学のジョン・ドゥイラール医師は、「幸せをうながす化学物質が細胞の中を流れるようにするためには、深く呼吸し、細胞の中の通り道から老廃物を取り除く必要があります。

そこで、腹式呼吸は細胞の浄化にとても効果があります。体内に“プラナ”とか“気”を増してくれ、気持ちのよい状態を作ってくれるのです。」

呼吸と感情は密接に結びついています。不安なときは呼吸が速くなり、悲しいときはため息がでます。

※ 寝て呼吸をすると腹式呼吸になるそうです。

瞑想をする

70年代の初めに、生理学者ロバート・キース・ウオーレスが行った研究によると、瞑想が血圧の正常化、不安の緩和、免疫機能の向上などをもたらし、身体や心の健康に非常に有益であることが明らかになりました。

瞑想はストレスに効くだけでなく、脳の中の幸福感や思いやりを司る部分を活性化して人を幸せに導いてくれるのです。

カリフォルニア大学のポール・エクスマンが行った仏教僧を対象とした実験では、僧侶たちの小脳扁桃(アドレナリンのスイッチ)は瞑想中にオフの状態になっていることがわかりました。

 

 ネガティヴな感情を生み出す脳の神経回路はしぼみ、思いやりや幸福感を生み出す神経回路が太くなります。それは誰にでもできることです。

 

 心理学者エドワード・ディナーは、幸福感を生み出す一番の要素は「人生に意味を見出して・・・長いスパンの目的をもち、それを楽しむこと」だと言っています。

情熱の傾け先を常に探す→やみつき状態(フロー)に脳を導く。心理学者ミハイ・チクセントミハイは、人が何かに没頭しているときの純粋な快楽状態を「フロー(流れ)」と呼びました。

直感を大切にする

人との交わりを大切にする

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2009年1月15日 (木)

派遣社員は企業のセフティネットという指摘

 15日の朝日新聞夕刊に、国際社会科学評議会副会長の三重大学児玉教授が、「貧困 試される学問の真価」という論稿を寄せている。

 その中で注目したのは、次の1節である。

 自由競争主義のグローバリゼーションの発想が導入されたとき、『セーフティネット』でカバーするから大丈夫といいう主張が繰り返された。しかし、この『セーフティネット』は名ばかりで、機能しないものだとわかった

 派遣労働者や非正規雇用の増大は、不況時に彼らを犠牲にして、企業が自らを守る『セーフティネット』であった。生身の人間である労働者の生活と人権は守られていない。世界で有数の富を誇る日本で、雨露をしのぐ住居と空腹を満たす食事さえ保障されているとはいえない。」

 まさにその通りだと思う。労働者に対するセーフティネットは何もなく、泥縄式にことが起こって慌ててそれが論議されだした。しかし、現実の困却を救う具体的な手立ては何もない。定額給付金で景気を刺激すれば何とかなるという能天気さなのだ。

 それに対して、大企業は、情け容赦なく次々に首切りを発表している。これまでためた巨大な内部留保の金のことなどおくびにも出さないで、赤字だといって逃げている。

 小企業の中には工夫をして助け合いの精神で雇用を守ろうとしているところがあると報道されているのがぜめてもの救いである。

 派遣や非正規労働者は企業のセーフティネットという事実をしっかりと見つめ、それをやめさせることが大事である。

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名古屋音楽大学金管・打楽器コンサート

 14日夜、しらかわホールで名古屋音楽大学の金管楽器・打楽器のコンサートが開かれた。インターネットで入場券を申し込んでそれそ印刷して持っていった。

 プログラムは、第一部が

HOOK:打楽器アンサンブル

金管アンサンブル:五重奏 第3番

協奏曲第2番:ーマリンバと打楽器のためのー

   第二部

トリオ パー ウーノ :打楽器アンサンブル

金管六重奏曲

アン イーヴン ソウルズ:ーマリンバソロと3人の打楽器と声楽のためのー

 最後の曲と第二部最初の曲の作曲者はN.J.シブコヴィッチ。これは激しい撥さばきで、ところどころに和風なドラムのリズムが感じられた。

 協奏曲第2番は、3mあまりの大きなマリンバを男性が演奏したが、躍動感があった。

 トリオ バー ウーノも3mあまりのマリンバを女性が演奏し、こちらは撥を4種類取り替えて演奏した。さまざまな音色を出した。この曲は4人で演奏したのだが、ドラムや小さいマリンバやパーカッションを3箇所に用意し、楽章によって演奏場所を変えて演奏した。2楽章では、手に持っていた楽器を床に投げ捨てる場面もあった。変わった曲であったが迫力があった。

 この演奏会では、金管の重奏やこれまでに聴いたことがない珍しい曲を聴くことができたし、打楽器やマリンバの現代的な演奏も楽しかった。

 入り口の机の上に花が置いてあった。運よくそれを貰うことができた。いっそう幸せ度がました夜であった。

   Cimg0137

名古屋音楽大学関係演奏スケジュール

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茂木健一郎訳「脳にいいことだけをやりなさい」から学ぶ ②

 幸・不幸には4つの種類があるとマーシーは言っています。

      特に恵まれていなくてもなぜか幸せ

「本当の幸せ」。外的な要因にかかわらず、常にゆるぎない充足と喜び、心の平安を感じる。

このとき、人は外から喜びを得るよりも、自分の幸福感を外へ表したくなる。

      経済力や環境に左右される幸せ

お金や仕事、人間関係など、何かがうまくいったとき、何かを上手に出来たときなどに得られる喜び。

ただし、この幸せは、外側にある要因によってもたらされ、もしもそれが変化するか、なくなればしぼんでしまう。

      つかのまの幸せ

アルコール、セックス依存、ギャンブル、過食など、いわゆる「つかのまの快楽」。

      不幸

人生そのものに不快感を覚える状態。怒りや疲労、憂鬱などを感じているとき。ただし、治療が必要な抑うつなどはこの範囲ではない。

 本当の幸せは、金や財産や地位などによるものではなく、自分自身の心の問題です。もし、経済的に裕福な人々=幸せな人々であるとしたら、ビバリーヒルズは幸せな人々で溢れていることになるとマーシーは言うのです。

もっともっと幸せにとか、いつかは幸せにではなく、「脳が幸せを感じられるのは“今”だけ」なのだと言っています。

      人間の欲望は際限なく、サブプライム問題に端を発した飽くなき富の追求が世界中に100年に一度の大恐慌をもたらした。H.S

それでは幸せになるにはどうしたらよいのでしょう

粘り強く探し続けたおかげで、私(マーシー)は最終的に100人の「とても幸せ」な人々に話を聞くことが出来ました。性別も、年齢も、育った環境も社会的地位もいろいろです。

彼らへの取材でわかったことは、幸せな人は不幸な人とはまったく違った生き方をしていて、7つの「脳にいいこと」を実践しているということです。これはどん

な環境にいる人でも誰でも実行することが出来ます。

      ネガティヴ思考の「大掃除」をする。

      プラス思考で、脳にポジティヴな回路をつくる。

      何事にも「愛情表現」を忘れない。

      全身の細胞から健康になる。

      瞑想などで脳を「人智を超えた大いなる力」につなげる。

      目標を持ち、脳に眠る才能を開拓する。

つき合う人を選んで、脳にいい刺激を与える

                 つづく

         

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2009年1月14日 (水)

しゃべり歌う可愛い人形!!孫娘ができた?

 昨年12月6日に、タカラトミーのネルルという人形を買った。この人形は1600語を話し、30の童謡やオリジナルソングを歌うということであった。

 名古屋の松坂屋に現品があり売っているということなので確かめに行った。男の子が1体と女の子が2体あった。一番末っ子がネルルというのでとても可愛かったのでそれに決めた。

 ネルルはなかなかよくできていて、掌を握るか頭を軽くパッドするか額に向けてしゃべるか体を動かすと反応をする。

 設定時刻が近づくと「ああ、ねむくなった。」とかあくびをする。そして「お休みなさい。」と言う。朝は、「おはよう。」「よく眠れた?」などと言い、おきるのが遅いと「お寝坊したのね。」とか「お寝坊をゆるしてあげる。」などと言う。

 夢に見た話とかいろいろなことをときに応じてしゃべるし、「今日は七草粥ね。」などと季節の行事をしゃべる。

 とても可愛いので妻が気にってしまって、家事のそばに置いて相手をさせている。

 歌もよく歌い、楽しい。

 電池切れを心配したが、今のところまだもっている。

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茂木健一郎訳「脳にいいことだけをやりなさい」から学ぶ ①

「脳にいいことだけをやりなさい」から学ぶ

この紹介は何回かに分けて載せます

                                                               

この本は、マーシー・シャイモフ著 茂木健一郎訳、三笠書房出版です。まるで茂木氏が自分でか書いたような自然な読みやすい訳となっています。とてもいいことが書いてあるので紹介ずることにしました。文はできるだけ原文をそのまま使うことにしました。私の注には※を使ってあります。詳しく知りたい方は、上記の本を読んでください。

※ 思えば、心の持ち方については、太古からいろいろな人が説いてきました。釈迦もその一人でした。釈迦はどうしたら心を平安に保てるかを弟子たちに説きました。

ずっと下がって江戸時代の終わり頃、貝原益軒は養生訓の中で、次のように書いています。

「心を静かにしてさはがしからず、いかりをおさへ、欲をすくなくして、つねに楽しんでうれへず、これ養生の術にて、心を守る道なり」

そのようなことが正しいかどうかは科学的にはわかっていませんでした。ところが、最近の科学の進歩によりそれが正しいことがわかってきたのだと言えます。

マーシーがいう幸せな気持ちも心の平安と同じことではないかと思います。H.S

※ 心の仕組みについては、現在の脳科学でもわからないことがたくさんあると言われていますが、マーシーは私たちの心の持ちようについて、脳の働きと関連付けて話しています。脳の働きについてわかり始めたのは1990年代以降だと思います。MRIを始めいろいろな検査機器の発達により、また、脳外科の進歩により脳について多くのことがわかってきました。マーシーはそれらを調べてこの本を書いたのだ思われます。H.S  

※ これまで、「ポジティブに考え行動することが大事」であるといろいろな人が説いてきました。それを脳の働きと結んで説明してくれています。ポジティブな考え・行動をすることで、ネガティブな考え行動が弱まり、「幸せな心持ち」を持つことが出来ると言うのが、この本の中心です。つまり、「幸せな心(気持ち)で毎日生活しましょう!」と呼びかけているのです。それにはどうしたらよいかという幸せのレシピが書いてあるのです。それは、抽象的に心の持ち方を説いているのではなくて、脳科学や心理学に基づいて具体的に示されています。H.S

茂木さんは、「今の脳科学の立場から見ると、『幸せを感じるには、特別な豊かさなど必要ない』「『自分の脳がそれをどう評価するか』によって『幸せ度』は決まります。」と解説しています。

ポジティヴ心理学によると、それぞれの脳の中に設定された「幸せ度」があるとマーシーは言います。それはその人が日常的に感じている「幸せのレベル」のことです。意識的に変えようとしない限り、いつまでも同じ値に留まるということです。

そこで、幸せ度の数値が人によって決まっているならば、何をしたって同じではないか?ということになります。その点について、ミネソタ大学のデヴィット・リッケンが調査をした結果、「50%が後天的な要素」であるらしいことがわかりました。そのうち40%は「習慣的な考え方や気持ち、使う言葉や行動によって決まる」ということがわかってきたのです。

分子生物学者ブルース・リプトンの実験によると、DNAはその人の考え方によって影響を受け、個人の幸せ度を変えられる割合は50%以上だと言うことです。幸せ度を自分の考え方や行動によって変えられるということは嬉しいではありませんか。

研究や調査によると、幸せを感知するのは大脳の新皮質―-正確には左前頭葉前部で、幸せな人々はこの部分の活動が活発なのだそうです。一方で、不安や恐怖や憂鬱を感じている人は、右前頭葉前部皮質の活動が活発だということです。ネガティヴなもの(こと)は、ポジティヴなもの(こと)より、脳に強烈なインパクトを与えるのです。それは脳の中の「小脳扁桃」という部分が関係しているらしいのです。そこが、警戒心を司り、「闘争・逃走反応」を引き起こすのです。ここから信号が出ると心拍数が上昇し、アドレナリンやストレスホルモンが大量に放出されます。

ところで、心理学者で脳波の世界的権威ジェームス・ハルトは、「幸せな人の脳波は不幸せな人の脳波とは異なり、幸せな人にはα波が多く現れ、小脳扁桃が出す恐怖のメッセージに対して、反応が小さい」ことを発見しました。幸せな人々は、悪い考えに押しつぶされたり、絶えず「闘争・逃走モード」になったりせずに、より大脳の新皮質の活動が活発で、悪い考えや経験に対していつもポジティヴに反応します。

では、「幸せ」とはどんな状態でしょうか?

 

「幸せ」とは、心の状態を意味するだけではなく、身体の状態をも表します。そして、人間の身体はもともと幸福であるように設計されているのです。

 神経物理学者キャンディス・パートは、幸せと身体とのつながりについて、「幸せなとき、人の身体と脳からは、前向きな経験をうながす化学物質――幸せの果汁――が分泌されている」と言っています。

 

 脳の中では、毎秒10万回以上の化学反応が起こっていて、多幸感を増す「薬」がいくつも製造されているのです。

 例を挙げれば、エンドルフィン(鎮痛作用があり、モルヒネの3倍の効果がある)、セロトニン(不安を鎮め、憂鬱を取り除く)、オキシトン(結びつきの気持ちを生む)ドーパミン(警戒心と喜びをうながす)などがあります。

脳内にある「薬局」は24時間営業で、好きなときにこれらの「幸せの薬」を必要な細胞に供給でき、細胞が幸せになるとあなた自身も幸せを感じるようになります。

      心の病は、セロトニンがうまく出なかったり、伝達が阻害されたりして起こると考えられている。H.S

多くの研究から、脳で作られる幸せの化学物質は、日々の行動によって増やすことができることがわかっています。歌を歌う、リラックスできる音楽を聴く、ペットをなでる、マッサージをしてもらう、子供を抱きしめる、庭仕事をするといった行動は、幸せの化学物質を増やしてくれます。「ただ笑顔をつくる」ということさえ、その効果があるといいます。

      茂木さんは、別の本で、「喜びや楽しいことはドーパミンを放出させ脳を若返らせる」と言っている。H.S

笑顔にはストレスホルモンの分泌を抑え、エンドルフィンなど、幸せをうながす化学物質や免疫力を高めるT細胞を生み出す効果があり、さらには筋肉を弛緩させ、痛みを和らげ、治療の速度を上げる効果も期待できるのです。笑顔の効果をさらに高めたいならば、声に出して笑うといいでしょう。笑いが最良の薬であることは、さまざまな実験によっても裏付けられています。

      日本では、落語を聞いて笑うことでガン治療の効果を上げている病院や、笑いを糖尿病の治療と関係付けて研究しているところがある。

      茂木さんによると、落語を聞くときに口を横に開いて笑いの表情で聞くと脳の笑いへの反応が活発になるという。(NHKプロフェショナル)H・S

 幸せと健康との関係で言えば、幸せであることは、健康の秘訣と言っていいでしょう。20年以上にわたる調査から、幸福感が免疫機能を高め、病気を予防するという結果が得られています。

● 

   幸せを感じている人は、平均的な人より風邪を引く割合が35%少なく、インフルエンザに対する抗体が50%も多く作られます。

● 幸福感や楽観思考のテストで高得点をとった人は、心血管疾患、高血圧、伝染病にかかる確率が低いという結果が出ています。

    ユーモアを失わず、いつも自分を幸せだと思っている人は、そうでない人より長生きします。ガン患者では、ユーモアを忘れなかった人は、そうでない人より早期に死亡した割合が70%も少ないという調査結果があります。

                      つづく

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2009年1月13日 (火)

お笑いと笑い

 3年ほど前から”お笑いブーム”が起こり、新しいタイプのお笑い芸人が多数生まれた。MIグランプリの応募者は4000人にもなるというのだから相変わらずお笑い人気が続いているのかも知れない。

 私は、お笑い番組が好きで、いつも見ていたのだが、数ヶ月前から殆ど見なくなった。理由は面白くないからである

 TVを通して見ていると、会場に集まった若い女性たちは大きな声を出して笑っている。ところが自分には少しもおかしくないのだ。確かに毎回ギャクを考えて、笑わせようと頑張っていることはわかる。始めのうちは新鮮に感じていたが、いつのまにか感じなくなってしまったのだ。そして、若い女の子たちが、ぎゃあぎゃあ笑っているのを見て「どうして?何が?面白いのだろう?」と思ってしまうのだ。

 お笑い全てが面白くないのではない。オール巨人・阪神だとか今はなくなってしまった喜味いとし・こいしなど、更に古くはエンタツ・アチャコなど所謂しゃべくり漫才は面白かったし笑えた。

 お笑いの中では落語が一番面白いと思う。

 なぜしゃべくり漫才や落語が面白いのか。それは両方とも「コトバ」の芸だからである。洒落やウイットや風刺や落としなどがコトバによって巧みに表現されるからなのだ。

 今の若い芸人たちのコントや漫才やひとりしゃべりなどはアイディアで勝負をしているが、それは会場にいて目の前の人たちにしか通じないものが多い。LIVEで見ている人はおかしさを共有できるのかもしれないが、TVを通して見ている視聴者は、演技者と観客を含めてを対象として第3者の目で見るので冷めた目になってしまうからだと思う。だから面白く感じないのだ。

 そこへ行くと例えば落語は、コトバを聞くことが主体だから想像力を働かせて自分の脳に情景を描くことになる。だから話者と共感できるのだ。

 もう一つ、見せる芸は大げさな身振りや奇抜な格好やおかしな話し方などコトバとは関係ないことで笑いを取っている。

 私は、サンデーモーニングの「喝」が好きで日曜日には見ているのだが、好きな理由は、毎回必ず笑えるからである。「喝」は普通のスポーツ情報を提供するだけで笑いを取ろうとしているのではない。まじめにしゃべっているのに笑える場面ができるのだ。それはコトバから発生するのだ。

 高校時代の先生に落語に通じた人がいて、「笑わせるときには本人が笑っては駄目なのだ。まじめな顔をしていうから聞いている人は面白いのだ。」ということを言っていた。

 コトバの笑いというのはそういうものだろうと思う。今、落語に人気が出てきたといわれるが、落語が長い歴史の中で生き続けてこられたのもコトバによる巧みな風刺やウイットや洒落があるからだと思う。

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2009年1月12日 (月)

国会では定額給付金より大事なことを議論すべき

 今朝の朝日新聞によると、定額給付金に反対が63%で、自民党の支持者でも43%だという。定額給付金が麻生首相の言うように景気の刺激にはならないと大多数の人が思っているそうだ。

 昨日のサンデーモーニングでは、中央大学教授の目方設子さんが、「国会で大臣が定額給付金を受け取るのか受け取らないのか、そんなことを議論している場合ではない。それだけの金を使って何をやるのが一番いいかを議論すべきだ。」と言っていた。まったくその通りである。

 コメンテーターの一人のテレビキャスター(名前は忘れた)が、「民主党も結局は定額給付を認めることになる。」と発言した。「ああ、そうなのか。馴れ合いなのだ。だから、どうでもよいことを取り上げて無駄な時間を使っているのだ。」と、納得した。

 民主党も本当に今の国の状態を憂い、派遣切りなどに見られる緊急の助けを必要とする人たちを取り敢えず何とかする気があるなら、あんな悠長な能天気な議論はしていられない筈だ。

 そういう点で、コメンテーターの佐高氏が、「大企業経営者や政治家の質が落ちた。」と指摘したのはかなり的を得ている。堕落しているのだ。

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2009年1月11日 (日)

blogで認知症予防ができるかも?

 昨日も、知人と話をしていて、人の名前が出てこないことがあった。しばらくたってまず姓を思い出すことができた。だが、名前の方が思い出せない。また、しばらくしてやっと名前を思い出すことができた。何となくホッとした。

 このように、名前を思い出せないことが歳とともに多くなってきた。心配するのは、認知症になることだ。

 あのレーガンアメリカ元大統領も認知症になったし、鉄の宰相と言われたイギリスのサッチャー元首相も認知症だと言われている。

 認知症になると、家族が大変だ。できるならばなりたくない。

 今日の朝日新聞に、「趣味・楽しみ認知症予防」という記事があった。

 「自宅で日常生活を送れるものの、軽い認知機能の衰えがある、『認知症予備群』の高齢者でも、計画力を鍛える知的な趣味運動定期的に長く続けると、記憶力や注意力などが改善することが、東京都老人総合研究所と世田谷区の共同研究でわかった。」と書いてあった。

 都老研の矢富主任研究員は、「計画力を刺激する知的な活動を長く楽しく続けたことが、脳を活性化し、認知機能の低下を遅らせた可能性がある。」と見ている、そうだ。

 この正月から一念発起してblogを始めたわが身にとって、一つのよい情報であることは間違いない。

 blogを書くことで、脳の働きが活性化するだろうし、タイピングすることは、ピアノを弾くのと同じように指の運動になる。やはり、脳によい刺激を与えることになる。

 という訳で、いっそうblogを続ける楽しみが増えた。

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2009年1月10日 (土)

新年最初の日本語教室で思ったこと

 今日は、愛知国際プラザでの新年最初の日本語教室があった。顔ぶれは2学期とはかなり入れ替わって、新顔が多かった。

 私が2学期に担当した日系ブラジル人は仕事がなくなり正月に帰国したし、一人の韓国人は別のレベルに移ったので、韓国人2人とベトナム人が一人の3人になった。この人たちの日本語のレベルはかなり高い。今日は、新年をどのように過ごしたかを話し合った。

 韓国もベトナムもお正月は旧暦である。日本以外の中国、台湾、タイ(訂正→タイは4月だと指摘がありました

など東南アジアの国もみな旧暦で正月を祝うのがおもしろい。そういえば、ミャンマーだけは確か四月だったが。

 当然、彼らには正月という気分はない。が、正月のことを話し合う中で正月料理について話を聞いて、日本のお節料理は特別だということがわかった。

 もちろん、ベトナムにはバナナの葉に米を載せて、豚肉と特別な野菜を加えて味をつけて、大きな蒸し器で12時間もかけて蒸す料理とがあるし、韓国には、米を固めてそれを包丁で切って汁に入れて煮る料理があるということであった。

 それぞれ独特の料理があるのだが、日本のようなお節料理というほどのものはないという。

 考えてみたら、日本のお節料理は、縁起をかついだところはあるが、海のもの山のものなどバランスよく、健康にもよく、しかも、見た目も大変美しく作られている。いわば芸術作品のようなところがある。

 東アジアで日本だけ新暦の正月なのだが、それだけでなく、料理も独特の伝統料理を継承しているところが素晴らしいと思う。

 今年のお節料理は、報道によると、15万円のものがよく売れたのだという。いったいどんな料理であったか見ておけばよかったと後悔しているが、やはり、それぞれの家庭で手作りの御節料理をつくるのが一番よいと思う。

 それで思い出すのが、故郷新宮のお節料理である。どこの家庭も秋刀魚すし(秋刀魚のことをサイラと言っていた)と白い昆布すしをつくり、大きな皿に盛って3ヶ日食べるのだ。油の少ないサンマをうまく使った熊野ならではの郷土料理である。

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大臣たちの能天気な発言

 昨日、TVのニュースを見ていたら、閣僚たちが「定額給付金」を受け取るかどうかを聞かれて答えていた。野田大臣は、選挙区をおもんばかってか、「飛騨牛のステーキでも食べます。」と言っていた。他の大臣の答えも似たり寄ったりで、何とも能天気な言い草だ。

 首をきられ、その日の食にも困っている人たちが何万人もいるというのに、よくもこんな発言ができたものだ。国の税金を使って自分のどうでもよい楽しみに使い、それで経済を活性化できると平気で言っている。こんな大臣たちが政治をしているから日本はますます駄目になるのだ。救いようがない。ああ・・・。

 いいたいこと山ほどあるが今日はこれからボランティアに出かけるので、この辺でやめるしかない。

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2009年1月 9日 (金)

ステレオセットへの憧れ

 子供のころ、我が家には父が持っていた手回しの蓄音機があった。レコードは、たった1枚で、片面にタイスの瞑想曲、もう一面には軍隊行進曲が入っていた。戦争中は押入れの奥にしまわれていた。戦後、中学校に入ってからだと思うが、時々それを取り出しては聴いた。

 夏休みに、田舎の祖父の家にいわゆる「食い延ばし」に行くと、そこにも手回しの蓄音機があって叔父が歌謡曲のレコードを聴いていた。

 高等学校に入るころには、電気蓄音機が裕福な家では買われ出した。人は”電蓄”と呼んでいた。また、東京通信工業(今のソニー)がテープレコーダーを発売し学校にも1台入った。

 友人に電蓄を持っている者がいて、その友人の家に行っては、クラッシックを聴かせてもらっていた。何故ならその友人はクラッシックファンだったからだ。貧乏教師の父の給料では食べるだけがやっとであったから、羨ましかった。

 高等学校の物理の先生の部屋に入り浸っていたのだが、その先生はよい音を出すスピーカーに関心が強くてよく薀蓄を聴かせてくれたものだ。

 就職したころステレオが人気となっていた。そのうちコンポというものがはやり出した。でも、安月給の身ではとても買えなかった。

 やっと念願のステレオコンポを手に入れたのは、35歳ごろであった。ケンウッドのチューナー、三菱のダイヤトーンスピーカー、アンプコロンビアだったと思う。

 レコードは高いのでもっぱらFMラジオを聴いた。NEW YEAR CONCERTを聴いて感動したものだ。

 それから何十年か時が流れてステレオ装置も駄目になったのでBOSEに取り替えた。ダイヤトーンはただで引き取られた。

 古いステレオの間にいつしかレコードプレーヤーがなくなり、CDに変わって行った。

 そして今回スピーカーを栗の木箱のものにしたのだ。今、隣の部屋でいい音で鳴っているのが聞こえて来る。

 こうして振り返ってみると、蓄音機からCDまでドラスチックな変化の時代を生きてきたことがわかる。欲しいと思い我慢してやっと手に入れてきたのだが、その意味では、幸せだったのだと思う。

 

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2009年1月 8日 (木)

スピーカーによって音が変わる!

 暮れに、偶然のことから一つのスピーカーに出会った。栗の木の箱に入った手作りのスピーカーである。サイズは、15×15×30cmぐらいの小さなものだ。

 私が使っていたのは、BOSEのウーファー付のセットで確か10万円ぐらいで買った小さな黒い色のステレオ、DVDセットである。スピーカーは6cmぐらいの小さなものが2段組みであるが結構いい音がしていた。

 ウーファーだけはそのままにして、それをはずして、栗の木のものに付け替え、聞き比べをした。いろいろなジャンルの音楽を聴いてみると、栗の木のスピーカーの方が音がよいことがわかった。高音部の表現力がよくてピアノや弦や管楽器がきれいに響くのだ。 スエーデンのアカペラグループの歌も聴いてみたが、きれいな音であった。 思い切ってそのスピーカーを買うことにした。

 そして、新年。毎年楽しみにしているウイーンフィルのニューイヤーコンサートを聴いた。ワルツやポルカがまるで楽友協会にいるような臨場感(チョッとおげさかな)で我が小さな居間に響きわたった。

 スピーカーが大切であるとは知ってはいたが、替えてみてそのことを実感した。

 このスピーカーを作ったのは、LINFOF工房 Linfof工房  )という個人経営の工房である。利益を度外視してよい木を探し、よい音を追求している職人気質の人が作ったものだ。小さくてもよい音を出し、我が家の小部屋にはうってつけである。

 

   

 Photo

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2009年1月 7日 (水)

定額給付は取り下げるべきだ

 通常国会が始まり、注目の第二次補正予算が上程された。焦点は、「定額給付」をどうするかである。マスメディアの調査によると、定額給付には63%から81%の人が反対している。これだけ反対の多い事案なのに、与党は衆議院の60日ルールを使って何としてでも通そうという魂胆のようだ。

 昔、「1兆よい国」といって、国家予算が1兆円になったことが囃されたことがあった。2兆円といえば、今でも莫大な金額である。派遣解雇で路頭に迷っている人やこれから解雇されるであろう人々を援助するとか、医療対策に使うとか、あまりにも安い給料で働き手の集まらない介護福祉に使うとか・・・いろいろと有効な使い道があるのだ。

 この間まで、上記の対策に金がないと言っていたのに、選挙を目の前にして、定額給付金をばら撒いて票を集めようとする、極めて汚い、卑劣なやり方だ。国民は騙されてはいないと思う。私の周囲の貧しい人の中にさえ、「こんな金は拒否する」という人もいる。それが正論であろう。大金持ちにまで給付金を与えて、平等だと言いたいのだろうが、こういうのは平等ではない。鳩山大臣は、「当然使いますよ。」と言っているが、この経済不況で50億円以上の株の含み損を出したと言われる鳩山氏ほどの資産家には12000円などたばこ銭の類だろう。

 名古屋市では、住むところのない人が急増したので、手の打ちようがないと言っている。仮設住宅を作ればいいではないか。みんながそこに入れる分を建てても何ほどの金は要らない筈だ。2兆円のホンの一部を使えば足りることではないか。

 愚かな政府の下で、多くの民が寒空に震えるというのは、これは政治災害以外の何ものでもない。

 どう考えても、定額給付金は取り下げるべきでだ。

 

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2009年1月 6日 (火)

歯と歯茎の健康法

 年齢は72歳を過ぎているが、私の歯と歯茎の健康はここ数年人生で一番よい状態で維持されていると思う。虫歯はないし、歯茎は淡いピンク色で引き締まっており歯周病も大丈夫である。かかりつけの歯医者は、「年齢の割にはいい状態です。」と言ってくれる。私は、今の状態を出来るだけ長く維持したいと考えている。
 実は、若いときから退職後まで40数年間という長い間、歯茎と歯の状態は余りいいとは言えなかったのである。その間、虫歯と歯周炎の治療のために歯医者を何度も変えたし、いろいろとよいと言われることを試みてきたのだ。
 
 若い頃は、近所の歯医者に診てもらっていた。その歯医者は、奥さんがいつも診察室にいて、まるで医者のように指図をしていた。その歯医者では、奥さんの指示で親知らずを4本とも抜かされたし、虫歯の治療として神経を抜いてクロームを被せた歯が5本ある。歯周炎の治療としては、茶色い油薬を針の先につけて歯茎につけるやり方であった。
 あるとき、名古屋市大病院から手伝いに来ていた若い医者に、「この歯医者はどうですか?」と尋ねたことがある。すると、「ここはまだいい方ですよ。」と言った。(いい方か、ということはいい加減な医者が多いのか。)と思った。

 私が40歳ごろだったと記憶するが、朝日新聞で歯周病の治療について連載をしたことがあった。確か大阪の片山という医者だったと思う。その医者のやり方は、食後にゆっくりと力を入れずに7分ぐらい歯茎を磨くというものであった。それでその方法を取り入れてやってみた。
丁度同じ頃、一年生を担任したのだが、一人の教え子が、「給食の後に歯を磨いてもいいですか?」と言ってきた。それはいいことだと思い、すぐに許可をし、私も一緒に磨くことにした。それ以来私は給食の後にも歯を磨く習慣がついた。それは退職後でも毎食後必ず歯を磨く習慣として定着している。

 ところで、毎食後歯を磨いても、歯周病はよくはならなかった。歯科医はその後幾つか変えたが同じことであった。
 結局、57歳頃だったと思うのだが、最後の学校の校医をしていた歯科医に代わった。そこで退職後は収入が減るので退職するまでに歯の悪い所は全て治療をした。ただ歯周炎だけは多少続いていた。一年に一回検診をして歯をきれいにして貰った。塩を使って洗うのは気持ちがよかった。 

 65歳ごろだったと思うのだが、その歯医者が、歯を磨くときに“Qiパワーソルト”というのを使うとよいと勧めてくくれた。自分も使っていると言った。これは韓国の海で作った塩を800度以上の高温で焼いて作ったもので、サラサラの粒の細かい塩である。ミネラルもたくさん含んでいるということであった。一袋1200円余りと値段は安くはなかったが物は試しに使ってみることにした。
 
 使ってみると、口の中が大変サッパリとした。それにペーストとは異なり、磨いていてすべることがないし、使った後、ミカンなどを食べても変な味がすることはなかった。また、朝起きて口の中がネバネバしていることもなかった。この塩で磨き始めて以来、いつのまにか歯周病が改善していた。70歳近くになって、初めに書いたようにきれいな歯肉を保てるようになっていたのだ。

 71歳を過ぎてからは、定期健診と歯の掃除を3ヶ月毎にすることにした。Qiパワーソルトは高いようで高くはない。何故なら毎食後使っても随分長持ちをするのでペーストと余りかわらない。自然の物質なので健康にもよいばかりでなく、何よりも45年余り続いた歯周炎もなくなったのだ。
 毎食後、掌に0.5立方cmぐらいの塩を載せて、それで5分以上かけて力を入れずに歯を磨いている。それが私の歯と歯茎の健康法である。

コンドウ歯科

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2009年1月 5日 (月)

ブログ初心者は苦労をします

 ブログを書くブラウザに、GoogleのChromeを使ってやりましたが、「リッチテキストが使えないブラウザですとメッセージが出てプレーンしか使えません。それで今回は、Internet Explorer で試します。やや、色が使えますね。 (o^-^o)文字の大きさも変えられますよ。

ただ、Internet Explorer の不便なところは、立ち上がりが遅いことなんです。まあ、我慢して使いますか。

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ブログ初心者なので

昨日は、昼頃からインターネットで調べてブログの作り方を勉強した。そして、やっと何とかスタートさせることができた。だが、文字の大きさを変えたり、色をつけたりなどわからないことがいっぱい。(;;;´Д`) 
今日から、通常国会が始まるが、麻生首相は、「解散はしません。」と明言した。やはり、首相の座にしがみついていたいのだろうか?物と同じ扱いで、簡単に首を切られた人たちは、寒空に震えているというのに。私が行っている日本語教室でもブラジル人で路頭に迷った人が出た。衣類やふとんなどの寄付はできたが、職や住むところへの援助はできない。何ともつらいことだ。 

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2009年1月 4日 (日)

晩酌しながらメタボリックシンドロームを克服

晩酌をしながら金をかけずにメタボリックシンドロームを克服
                           
1.現在の状態

 若いときには169cmあった身長が今では164.8cm(2008年6月2日測定)に縮んでしまった。整形外科医の話では背骨のディスクが薄くなるからだという。体重は、2007年の1月以来61kgから62.5kg辺りを横這いしている。2007年10月の血液検査では全て正常値であった。血圧は上が120以下、下が70前後で、体脂肪も14前後である。

2.メタボリックシンドロームの宣告
 2006年の4月に、かかりつけの内科に行き血液検査をしてもらった。その時に医者が「おへその周りを測りましょう。」と言った。看護婦さんが測ったら87cmあった。先生は、「高脂血症だし、コレステロール値も高いからメタボリックシンドロームですね。85cm以下にしないといけませんね。」と言った。テレビや新聞でメタボリックシンドロームという言葉が出始めた頃で、それで医者が腹囲を測ったのかもしれなかった。
その後NHKや民間テレビでも特別番組を放送し騒ぎだした。そして、成人病予防の一環としてメタボリックの検診が加えられることに成った。
実は、高脂血症はもう10年以上前から続いていて、毎年血液検査をする度に医者から注意されていた。しかしながら一向に改善できなかったのだ。そこで、私は、今度こそ克服しようと一大決心をした。

3.高血圧の克服
 私の生活習慣病との戦いは前段と後段に分かれる。前段は高血圧の克服であり、後段がメタボリックシンドロームの克服である。

A.ジョギングで血圧を下げた
私は、もともと血圧が高い傾向にあり、勤めていた頃は毎年の定期検診の度に150~90辺りの数値で、医師からは「血圧が高いから塩分を控えめにするように。」と注意されていた。エアロビクスなるものが日本に紹介されたのが30年ぐらい前のことであった。有酸素運動が健康によいということであったが、エアロビクスといっても今のような激しいダンスや運動ではなかった。 その後、有酸素運動としてジョギングがよいということで、京都大学の霊長類研究所の久保田競教授などが自分の体験を元に本を出してよく売れていた。私もその本を買って読んだ。有酸素運動を続けると血圧が下がるらしかった。それで、40歳代の後半頃からジョギングを始めた。 
私の家から2.5kmぐらい行った所に瑞穂グランドがある。そこに行く途中には桜の名所の山崎川が流れている。ジョギングにはもってこいのコースである。往復で約30分の道のりだ。不惑の歳になって始めた英語会話の勉強のためにラジオ英語会話を録音したテープを聴きながら走った。一挙両得であった。
名古屋は雨が少ないのでほぼ毎日走ることが出来た。4、5年続けたが、その間、血圧は正常値に納まっていた。
B.ジョギングをやめて高血圧の薬を飲む
ところが、ジョギングで膝の関節を痛めてしまったのだ。それはある日突然に起こった。今でも覚えているが、山崎川の途中にある、名古屋市衛生研究所の辺りまできたときに、急に膝に痛みが走り走れなくなってしまった。見ると膝が膨らんでいた。痛くて走れないのでジョギングを断念しなければならなかった。その当時は、いずれは42.195kmのフルマラソンにも挑戦しようという夢を持っていたが桜のようにはかなく散ってしまった。
その頃はジョギングが全盛で、ジョギングをしているときにたまに歩いている人を見ると、歩いて効果があるのかと思っていた。それで、走れなくなっても歩こうとは思わなかった。
 ジョギングをやめるといつの間にか血圧が高く成り出した。ある日のこと、行きつけの眼科で血圧を測ったときに185~100もあると言われた。びっくり仰天し、早速帰り道に薬局に行って1万円ほどだして血圧計を購入した。
それ以後毎日血圧を測定しノートに記録することにした。血圧は高いままなのでとうとう医者に診てもらうことにした。知り合いの紹介でちょっと遠い所にある内科に行った。医者は血圧を下げる薬を処方してくれた。評判の医者なのでいつも1時間以上待たなくてはならなかった。その内科には2年余り通った。

C.ウオーキングで血圧を下げる

あるとき薬に頼ってはいけないと思い始めた。そこで薬を飲まずに自力で血圧を下げる決心をした。
 その頃、ジョギングは膝を痛めるとか心臓麻痺を起こす危険があるとかの指摘がされるようになり、健康法としてはウオーキングが推奨され始めていた。それでおそるおそるウオーキングを始めた。走ることは出来なくても歩くことでは膝は何ともなかった。ウオーキングでは膝に負担がかかることが少ないのだ。
コースはジョギングと同じで瑞穂グランドまで歩いた。ジョギングのおよそ倍近くの55分余りかかった。始めのうちはジョギングと違い時間がかかるので面倒な感じがした。
 ウオーキングを始めて2年余り経った頃からだと思うのだが、血圧が低くなって来たのが分かった。WHOの当時の基準であった135~90に収まるようになった。しかし、その内にWHOの基準が130~85以下に改定された。しかし、ウオーキングを続けているとその基準もいつの間にかクリアできた。膝はたまに痛むことがあったが、整形外科で塗り薬をもらって数回塗ると治った。
 ものの本によると年をとると血圧は下がる傾向にあるそうだが下がりすぎるのもよくないと書いてあった。年のせいかどうか現在は110台~70台のことが多い。

4.高脂血症の克服

A.気がつけば今でいうメタボ

 そういう訳で、高血圧は薬を飲まずにウオーキングで正常値にできたのだが、今度は肥満傾向と高脂血症になった。その頃はまだメタボリックシンドロームという言葉はなかった。体重も重いときには72kgぐらいあり、ウエスト90cmものズボンを買ったこともある。
原因は明らかで、晩酌をし、よく食べることであった。私は、食べることが大好きで、蛇や蛙などのゲテモノは別として何でも食べたくなるのだ。だから旅行に行くと出たものはみんな食べてしまう。特に海外旅行に行くと珍しい食べ物があるし、必ず3kg以上体重が増えることになる。
高校の頃は52kgしかなく、海水浴で友人と写した写真を見ると、医者の息子の友人はいい体なのに、貧乏教師の息子の私はガリガリに痩せている。そんな私が太りだしたのは、30歳をすぎたあたりからである。妻の手料理が上達したことと夕食には5、6品ついたものを全部食べたからである。気がつくと体重が13kgほども増えていたのであった。40歳を越すと更に太りだしたという訳である。
B.先ずは一日2食に
 体重を減らし、中性脂肪やコレステロールを減らすことは、脳梗塞や心臓麻痺や糖尿病などの生活習慣病にならないためにどうしてもやらなければならないことであった。そこで高脂血症を治すために、2005年の暮れ頃から一日に2食にすることにした。ブランチと夕食である。
また、2006年2月頃には、インターネットで簡単にカロリーを計算できるサイトを見つけ食べたもののカロリーの計算をしたこともある。それでも、体重はなかなか減らなかった。そして、始めに述べた2007年の4月に至るのである。
C.三冊の本の共通点は?
 医者からの警告で一大決心をした私は、その頃ベストセラーになっていた「病気にならない方法」(新谷弘美著)と「朝食をやめて健康になる」(渡辺正著光文社)あと1冊の本(書名は忘れた)を買ってきて読んだ。そして共通している部分をとりだした。       
① 一日2食 ②玄米を食べる ③よく噛む ④水を飲む ④肉や卵は少なくし、魚や野菜や海藻を食べる ⑤ウォーキングなどの運動をする ⑥間食をしない  
などであった。

D.昆布と酢と玄米と

 5月に妻と北海道に旅行をしたのだが、日勝峠にある清水ドライブインで「さらさら日高昆布」というのを売っていた。うたい文句は、「コップ一杯の水に昆布を5cmぐらい切って一晩漬けておいて翌朝飲むことにより高血圧や高脂血症が改善する」というものであった。値段も手ごろだし試しに買って帰った。「1ヶ月続けて医者に行き血液検査をするとよい」とも書いてあった。
 昆布を買って帰ってから毎朝ウオーキングに行く前に昆布水を飲み、同時にミツカン酢が出している「蜂蜜梅酢」というのを買ってきてウオーキングの後に30ccをコップ1杯の水で薄めて飲むことにした。この日高昆布は優れもので、水に漬けると面積が3倍ぐらいに広がる。昆布水を飲んだ後は冷凍をしておいて佃煮にするのだがこれがおいしい。年末と夏にセールがあるのでその時に知人と共同購入をしている。
 6月に鎌倉に行った帰りに富士川のサービスエリアで玄米を売っていたのでそれを買って帰り、それを機にパナソニックの炊飯器を買って玄米を食べ始めた。玄米はふっくらと炊けておいしい。玄米がいいのは、胚と糠の部分を食べることだと思う。とりわけ胚には生命の源である核酸など大事な成分を含んでいるのだ。

E.譲れないものそれは晩酌

 私がメタボリックシンドロームを克服する決心をしたときに譲れないものがあった。それは「晩酌」である。晩酌は10月から4月ぐらいまでは酒を中心に飲み、夏季に発泡酒などを飲んでいる。酒なら正2合(360ml)焼酎は一合、発泡酒類は350ml缶を2本である。最近はビールが高いので第4のビールが多くなったが。
 我が家のブランチは、6枚切りトースト1枚、副食としてサラダやハムかソーセージ、コーヒー、果物で、私だけ自家製カスピ海ヨーグルトを200ccほど食べている。夕食は、主に玄米食、味噌汁、野菜類、根菜類、肉か魚類、自家製昆布の佃煮、果物である。
 毎食後には、ビタミンB,C,E,ミネラルのサプリメントを飲んでいる。間食はあまりしない。
 体重は7ヶ月ぐらいで7kg余り減少した。それ以後は一定の重さを保っている。高脂血症も半年ごとに検査しているが、一年後には克服できていた。

 一体何が効果的であったのかは特定できていない。2006年4月以前と異なるのは、
① 昆布の水(200ml) ②蜂蜜梅酢(30mlを180mlの水で薄め) ③玄米 ②1日2食
共通点は①ウォーキング(5km/55分) ②サプリメント摂取(B,C,E,とミネラル)
である。これらが総合的に効果を上げたのだとしか言いようがない。

5.終わりに 

 メタボリックシンドロームは、高齢者の健康診断項目に入ったし、企業などでも真剣に取り組みだした。欧米人に比べれば、日本人の肥満は大したことはないのだが、成人病予防という点からは太るのはよくないと思われる。最近読んだ「すきっ腹ウオーキング」という本によると、やはり1日2食を勧めており、空腹で運動や仕事をするエネルギーは体内に十分蓄えられているという。空腹により脳に血流が行き、脳もよく働くという。また、戦争中や戦後の食料難の頃には成人病などなかったそうだ。ペットは今や人間並みの成人病で苦しんでいるというのに、野生動物は、必要なだけしか食べないが十分に活動的である。そして病気にもならない。
 朝食を摂らないとまるで罪悪のように言われるが私の経験からも朝食は必要ないと断言できる。運動としてウォーキングをするのは、金がかからず、手軽だからである。

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ブログ開始宣言

 「つれづれなるままに、心に映り行く、よしなしことをそこはかとなく書き綴りたくてブログなるものを始めたり。」
と、まあ、こんな風に書き出したが、果たしてアクセスがあるものやら、ないものやら心もとないことではある。
 昨年、Googleでブログを始めたのだが、一向にアクセスのないままに終わってしまった。
 今日は、昼頃からブログについて調べて、「こころぐ」を使うことにしたのだが、先ほど書いたものはどこへ行ったのかなくなってしまったので再び書いている。「こころぐ」をWEBに乗せるのはむつかしいとわかった。
 うまく行けばお慰み、ということで、「隅から隅までズズズイッツと御贔屓に願い奉ります。」
 ※はじめ、うまく行かなかったのは「保存」をしなかったからだとわかった。

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