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2009年1月30日 (金)

ナイルと太陽と世界遺産の国エジプト - 8-最終回

51)朝食の時

3時ごろ起床して、最後のパッキングなどをした。朝食は、早めに行ったが、レストランはもう開いていた。JTBのグループは終わるところだった。グループによって指定席だった。食べていると、MATさんがやってきた。やはり早い。OTKさんやMIUさんたちも来た。NUさんは私たちのテーブルにつき、一緒に食べた。私は、持っていた紀州南高梅の蜂蜜漬けをみんなにあげたら喜ばれた。

バイキングは同じだが、シェラトンはウエイターがコーヒーのサービスをしてくれた。食べながら「MATさんはあちらこちらに海外旅行をしているから余裕があるのだね。」という話から、何時しか株などの話になった。今年は株価が下がっているので大きな含み損が出ているとか、これまでに儲けた話や損をした話が出た。為替の話も出て、今円が高いから105円ぐらいになったら買いたいなどという話も出た。MATさんは、次は、スペイン行きが決まっており、NUさんはアイルランドに行く予定だと言っていた。

りんごを一つ持ち帰ってバッグに入れておいた。

52)王家の谷

645にバスはホテルを出発した。最終日は、ナイル川西岸の“死者の谷”といわれる「王家の谷」と「ハトシェプト女王葬祭殿」に行くのだ。

途中、アメンヘテプ三世の坐像である巨大なMemnon像で停車した。

 

  730“王家の谷”に到着。ここには王墓が63あるという。電気で動く2両連結のトロリーに乗るのだ。サウサンが「どんどん前に行かないと他の人が来てしまうよ。」と言った。後からきたフランス人のグループが前に出た。トロリーは、5分ぐらい乗ってすぐに着いた。入場券では、3基の王墓に入れるのだ。ツタンカーメンの墓は80ポンド別に必要なので希望者だけだが全員入る。

 

  王家の谷は、死者の谷にふさわしい肌色の禿山の谷にあった。正面に三角にとがった頂があり、その形がピラミッドに似ているのでこの地を選んだのだという説明であった。墓はみな地下に造られている。

まず、混んでこないうちにとツタンカーメンの墓に入った。入り口に、TOMB OF TUT ANKH AMUNと書いたサインが出ていてNO.62の王墓だった。ツタンカーメンは、8歳で即位し、僅か18歳で亡くなったのに有名なのは、まさかと思う深いところにあったので王墓が盗難にあわないで完全なままで発見されたからだ。発見はカメラマンによる偶然であった。サウサンは、「吉村先生は一生懸命頑張っているのに運がない。」と言った。

中に入ると、ガラスの箱の中にツタンカーメンのミイラが安置されていた。黒い頭部と足以外は白い布で覆われていた。身長はミイラのせいか120cmぐらいだ。傍に監視の人がいた。ミイラの発見は、来る前の新聞やTVで報道されたばかりで、公開されたのは10日前だと言う。我々は大変ラッキーだったのだ。NUさんが、「ミイラ館を見なくてよかったね。」と言った。KATさんは、これだけ見ただけで来た価値がある。」と言った。

近くに、石棺があり、一番下の金の装飾をしたマスクが入っていた。それ以外は全てCairoの考古学博物館に置かれている。

次に、ラメセス九世の墓に入った。入り口に、RAMESES IX 書いてあり、NO.6の墓だ。入り口を入ると、絵や文字を描いた壁が続く。どんどん下って、突き当りの部屋の天井に太陽を次々に飲む女神の姿が描かれていて、最後に太陽が吐き出されたところが朝である。面白い発想だ。

それから、RAMESES三世の墓を見た。叙事詩を描いた壁画があり、よい蛇と悪い蛇が出てくる。

最後の一つの墓は自分の好きなものを選んで見るのだ。お勧めは、THUTMOSIS Ⅲの墓だった。NO.34だ。ただ、谷の間にあり、登りがあってその後地中に入らなければならないそうだ。私とKAMさん、KATさんはそこに行くことにした。後でMATさんも追いついた。鉄製の階段を上ると入り口があり、そこから下って行く。両側には壁画があった。途中に小さな部屋があり、そこは“命の鍵”だけが一面に描かれていた。それから更に行くと大きい部屋があり、壁画が描かれてあったが、ここまで来ると蒸し暑かった。一段下がった部屋がありそこも壁画が描かれていた。まるでサウナのような暑さだった。サウナ付きエアロビクスをしたような気分であった。早々に外に出た。そして絵になりそうな峡谷の写真を撮った。

915までいて王家の谷を離れた。

53)大理石加工店

トイレ休憩を兼ねて大理石の加工を見に行くとい言う。アラバスタという名の大理石で白と緑がある。店頭で3人の男が実演をしていた。石を削る人、形を作る人、穴をきれいに加工する人だ。三日月形の鎌のような穴を開ける道具も何種類かあって成るほどと感心して見た。機械で加工して作る花瓶と手作りの花瓶は重さで分かると言うので持ってみたら手作りの瓶は実に軽い。それに透けて見えるくらい薄く削ってあるのだ。中に電球を入れると灯りがきれいだ。

サウサンは二階の店に案内した。そこで一番安いものはと聞いたら、アラバスタで作った糞ころがしだという。緑や黄に着色したのや無着色の3種類があったので薄いエメラルド色の無着色のものを3個買った。一個5ポンド(100円)だった。腹の部分はくり貫いて細かい細工がしてあるので感心した。

54)ハトシェプスト女王葬祭殿

 1020 HATSHEPSUT(ハトシェプスト)女王葬祭殿に行った。エジプト旅行最後の観光場所である。王家の谷の反対側にあり、あの尖った頂がこちらからも見られた。この女王はエジプト初めての女王だそうだ。葬祭殿までは電気トロリーで行く。葬祭殿は3階建てで禿山をくり貫いて作られたように見えるが、そうではなく、その前に建てられたのだそうだ。正面からは、柱が並んでいるのが見られる。3階に警官がいたので「銃撃はあの辺りで行われたのか?」と聞いたが、「知らない。」と答えた。きっと嫌な思い出に触れられたくないのだと思った。64人を殺した銃撃は2階の向かって左側で行われ、日本人も12人殺された。KATさんは冥福を祈ってきたと言っていた。

 葬祭殿からの見晴らしはよくて遠くまで見ることができた。吉村先生が立てたという研究所の建物もあった。

 この建物を見ていると、便意を催してきたので戻ることにした。やっとのことで入り口まで来ると、仮設の便所があったので助かった。嬉しかったので1ポンドと半端の25ピアストルの紙幣を上げた。

 この葬祭殿で、帰りながら、歌が出来た。沖縄民謡の“芭蕉布”のメロディで歌うのだ。

   空の青さと河の蒼    ナイルは流れる南から北へ

   豊かな恵みをもたらして 悠久の流れ

   太陽の国エジプト

 エジプトはナイルの賜物と古代の史家ヘロドトスが言ったが、4000年以上の長い歴史の中でナイル川は毎年氾濫を繰り返し肥沃の土をもたらした。また、エジプトは強烈な太陽の国であり、ファラオは太陽を崇めた。空は真っ青で太陽が燃えている。まさにそんなイメージが浮かんだのである。

 私は、空港に行くバスで出来たばかりのこの歌を披露した。

55)昼食

 1115 葬祭殿を出発した。レストランに行って魚料理の昼食だった。エジプトでの料理はこれと言って印象に残るものはなかった。量も少なかった。みんなに嫌がられたのは、ダヒーナというペーストだった。パンはまあ悪くはなかった。

サウサンが「これでエジプト観光は終わりました。」と言った。長いと思った旅行もあっという間に終わった。

56)サウサンとの別れ

 空港に向かうバスで、サンサンが挨拶をした。「このグループは、これまでで一番素晴らしいと思います。鈴木さん、KATさんなどみなさん楽しい人ばかりでした、」と言ってくれた。サウサンも私は優れたガイドだと思った。行動と判断が速くて適切、日本語が上手で冗談もうまかった。

 ルクソール空港に着くと、バスの外でサウサンに別れを告げた。私は、日本から持ってきた飴と名刺を渡し、「これからも頑張って下さい。」と言った。

 空港の便所で要るかも知れないととっておいた3.5ポンドは、大山さんに「次のエジプト旅行のトイレ代だよ。」と言って上げた。

57)カタール行き航空機で

1440に搭乗した。飛行機はやや小ぶりで満席であった。前の席が私たちやほとんど同じ行程であったJTBの「エジプト満喫10日間」などの日本人で、後ろがアラブ系の人が座っていた。アラブ人は男ばかりで異様な光景であった。1530に離陸をした。隣の席は、沖縄から来たYASさん夫婦でいろいろと話ができて退屈しなかった。

この飛行機にはJTBのガイドが隣に座っていた。食事を摂らず、りんごとミカンを持っていたので尋ねたら、「果物の持ち出しは自由なのです。持ち込みは出来ません。私は機内食が食べられないときは果物を持ち込んで食べるのです。」と言った。ホテルから持ってきたもののようだ。そのとき私もバッグにオレンジが入っていることを思い出した。入れたまま知らずに荷物検査を通ったのだった。周りの人に果物の持ち出しは自由であることを知っていたか聞いてみたら誰も知らなかった。

この飛行機は小さかったので気圧の変化が強く、それが原因で、帰国後耳鼻科に行く羽目となった。あるところに相談したら、航空中耳炎だから耳鼻科に行くように言われた。5日後に耳鼻科に行くと浸出性中耳炎だと言った。航空中耳炎というのは古い言い方だそうだ。お陰で金はかかったし、不快だしでがっくりした。

58)カタール空港で

カタール空港には1830頃に到着した。ここでは5時間30分の待ち時間がある。大山さんが、食事券を貰える様に交渉してくれた。お陰で食事券が貰えた。待合室にビュッフェがあり、そこで好みのスナックや軽食が貰えるのだ。有難かった。

MATさんと話したり、OTAさんたちと話したりした。NUさんは腹の調子が悪くて別の部屋の椅子で寝ているとのことだった。OTAさんも腹の調子がよくないと言っていた。

持ち込んだオレンジを食べた。皮が薄くておいしいオレンジだった。

10時頃に腹が減ってきたので、インド米とそれにかける煮込みのものを貰った。若い女の子たちの席に行き、一緒に食べさせて貰った。

その後、二人にストローの手品や輪ゴムの手品を見せた。

それからOTAさんたちファミリーの席に行き、ストローの手品やロープの手品を見せた。そうこうしているうちに搭乗時刻が近づいた。

59)関西空港へ

 005に離陸し、いよいよ無事に関西空港に着くのを願うのみだった。私の席は20Kで窓側だったが、大山さんが一番後ろの席でよければと言って通路側の席を探してきてくれた。それでそこに移った。後ろの席は一列全部空いていてJTBの人たちが移動してきた。私の横が2席空いていたので横になって3時間ほどうつらうつらした。目を覚ますとNUさんがトイレに行って来た所で、「向こうはエアコンが寒いので席が空いているなら移って来ていいか?」と聞いたのでどうぞと答えた。体調の悪いNUさんは少し脚を伸ばして休むことが出来た。

 機内食には日本食を選ぶことが出来た。私はキリンビールとワインを飲んだ。NUさんは蕎麦を食べたら少しよくなったと言っていた。

 関西空港には、1520に着いた。8時間半の長い飛行時間であった。

YASさんとMATさんのスーツケースが壊れていたので証明書を書いてもらった。私のキャリーバッグもあちこちが汚れていた。

皆さんに別れを告げて名古屋方面の11名は、1417に迎えの大川バスに乗った。運転手は2人付いていた。ところが、伊賀上野のドライブインでトイレ休憩を済ませたあと大渋滞が始まった。事故があったようだ。それと3連休の日曜日が重なって名古屋駅に着いたのは4時間半後であった。カタールからの半分の時間より多くかかったのだ。がっくりした。 

60)エジプト旅行を終えて

 ジャンボツアーズに乗り換えて参加したが、一人参加の料金が安かったので、その分をビール代やみやげ物代に当てることができた。グループが20人でまとまりがよく、いい人たちであったし、添乗員も現地ガイドも大変よかった。それで楽しい旅行をすることが出来た。

 「エジプトはナイルの賜物」をもじって「エジプトは世界遺産の賜物」だという印象を持った。どこへ行っても日本を始め、台湾や韓国や中国やヨーロッパからの観光客で溢れていた。また、ナイル川が狭いのが印象的であったが、水量は豊富で、ナセル湖にたっぷりと水を蓄えているのが凄いと思った。ピラミッドや神殿に見られる古代エジプト人の知恵と力の凄さには感銘を受けた。太陽の強烈な輝きと空の青さも心に強く残った。

 まさに“ナイルと太陽と世界遺産”の国なのだ。

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